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パソコン創世記
第2部 エピローグ 魂の兄弟、再び集う
1983 Windowsの約束が果たされた日

オープンアーキテクチャの夢

富田倫生
2010/9/7

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 PC-9801の勝利を最終的に決定づけるMS-DOSバンドル★を仕掛けた男は、一太郎の誕生を契機としてこの戦略が機能しはじめるのを目前に控えて、パーソナルコンピュータ事業の表舞台から突如退いた。これを機に確立された水野新体制下、PC-9801の快進撃が始まった。

 ★1985(昭和60)年8月の一太郎、1986年9月の1-2-3日本語版の発売開始は、MS-DOSとPC-9801の勝利を不動のものとした。アスキーとの提携解消後、100パーセント子会社として設立されたマイクロソフト株式会社は、MS-DOSの勝利が確定した段階で、アプリケーションへのバンドル打ち切りに向けて動きはじめた。

 一方でMS-DOSがバージョンアップを繰り返す中で、日本市場のユーザーの多くはアプリケーションの陰に隠れた旧バージョンを、その存在すら意識せずに使い続けていった。新しいバージョンに付け加えた新機能には、こうした構図が引き続く限り、なかなか光が当たらなかった。加えて本来は独立した著作物として販売すべきMS-DOSを、勝利が確定したあとも無償で供給する動機は、マイクロソフトには存在しなかった。PC-9801用アプリケーションでは、マイクロソフトはMS-DOS 2.0版までのバンドルを受け入れた。2.0ではハードディスクの容量に20Mバイトまでしか対応できなかったものが、3.0からは32Mバイトまで対応できるようになったこと、加えて今後ネットワーク化を目指すとき、アプリケーションを切り替えるごとにリセットボタンを押して、バンドルされている古いバージョンで起動していたのでは対処できないことなどを根拠に、マイクロソフトの古川享は日本電気側にバンドルの打ち切りを繰り返し働きかけた。浜田の後任を務めた高山由は、OSの環境を整備し、その機能を理解しながら使っていくのが正しい技術の発展の道筋であるという観点から、古川の提案を受け入れた。日本電気は1987(昭和62)年1月から、主要なソフトハウスを集めてMS-DOSのバンドル打ち切りに関する検討会を開始し、約半年の準備期間を経て、アプリケーションのバージョンアップを機会にバンドルを取りやめるよう働きかけていった。

 浜田俊三に代わってパーソナルコンピュータ販売推進本部長に就任したのは、高山由だった。情報処理営業支援本部でユーザー教育にあたる教育部長を3年経験してから、高山はパーソナルコンピュータ企画室長代理、パーソナルコンピュータ販売推進本部長代理を歴任していた。入社後、初めての配属先となった電子機器事業部のプログラム係で水野幸男と出会って以来、この先輩との縁が深かった高山は、大型のOSを長く担当し続けてきた。

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 部長就任直後から、高山はおよそ2年間をかけて、全国の販売店へのあいさつまわりに走った。徹底して販売店を重視するという方針を打ち出した高山は、浜田の組み上げた構図を存分に生かしきり、成熟期に入ったPC-9801を売りに売りまくった。

 その高山にとっても、渡辺和也は形の上では上司であり続けた。だがオープンアーキテクチャこそパーソナルコンピュータの魂と信じてきた渡辺は、日本の標準機となったPC-9801の互換機を作ろうとする他社のさまざまな試みがあったとき、情報処理事業グループ全体を敵に回して自らの信念を貫くことができなかった。

 更迭の5カ月後に飛行機事故で命を落としたフィリップ・D・エストリッジの無念は、渡辺の胸に染みた。

 さまざまなメーカーのさまざまなマシンをつなぐネットワーク分野で急成長を遂げたノベルの日本法人の社長にと誘いを受けたとき、渡辺はてのひらからこぼれ落ちたオープンの夢が、小さな炎となって胸によみがえるのを覚えた。

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