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IT業界の開拓者たち

第2回 忘れ去られた悲運の英雄

脇英世
2009/2/3

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ポール・アレン(Paul Allen)――
マイクロソフト共同創業者、ポールアレン・グループ会長

 ポール・アレンという名前を聞いても、いまの若い人はどれだけ彼のことを知っているだろうか。ビル・ゲイツとともにマイクロソフトを創立し、その帝国の基礎を築いた人だといわれても、なかなかピンとこないだろう。気の毒なことに、誤診が彼の人生から貴重な時間を奪った。しかし彼こそが、ビル・ゲイツの世界征服の起爆剤となった人物なのである。

 ポール・アレンは、ワシントン州立大学の図書館長補佐の息子であり、早熟な子どもであったらしい(*1)。一貫して柔和で知的な雰囲気を持っていたという点では多くの人の評価が一致する。

*1)ポール・アレンの父親、ケネス・S・アレンは1960年から1982年までワシントン州立大学に勤務した。ポール・アレンは父の名を付けたアレン図書館を1000万ドルでワシントン州立大学に寄付している。親孝行な息子である。

 ポール・アレンがビル・ゲイツとチェスをすると、やみくもな攻撃一本やりのビル・ゲイツをやんわりかわして負かしてしまったと伝えられる。なんとなくポール・アレンの性格を説明するエピソードである。

 ビル・ゲイツが年より若く見えたのに対し、ポール・アレンは年よりずっと落ち着いて見えた。ひげを伸ばすと、10代のときでも、20歳以上に見えた。昔の写真を見ると、ポール・アレンがビル・ゲイツより2つ年上なだけだとは誰も思わないだろう。ビル・ゲイツは、まるでティーンエイジャーで、ポール・アレンは一見、大人に見える(*2)。

*2)最近の写真では、ポール・アレンはきれいにひげをそっている。面長だった顔も横方向に広がって別人のようである。彼自身のWebサイトで見ることができる。

 ポール・アレンとビル・ゲイツは、シアトルのレイクサイドスクールという私立の名門校に通っていた。レイクサイドスクールはシアトルの名士の子弟が通う学校として有名である。ビル・ゲイツが中等部の2年生になったとき、レイクサイドスクールにはタイムシェアリングサービスを受けられるテレタイプ端末が入った。熱心なPTAが、子どもたちのコンピュータ教育のために募金して導入したのである。

 このテレタイプ端末が開いたコンピュータの世界に最も強く魅せられたのが、ゲイツとアレンを中心とするグループである。彼らはコンピュータの世界にのめり込んでいった。プログラムの技量はどんどん向上し、学外のいろいろな仕事も引き受けられるまでに成長していった。初期のマイクロソフトの人材は、この時代のレイクサイドスクールのコンピュータキッズから供給されている。

 アレンは1972年に、ワシントン州立大学へ進学する。この年、彼とビル・ゲイツのグループはマイクロプロセッサを使用したコンピュータを作ろうと考え始める。具体的には道路の交通量調査用の測定機を製作・販売するトラフ・オー・データという会社が設立された。

 アレンは、ワシントン州立大学のコンピュータPDP-10上でアセンブリ言語を使って、インテル8008チップの動作をシミュレートするプログラムを書いた。このシミュレータを作るという発想は極めてユニークである。シミュレータがあれば、ハードウェアが完成する前からプログラム開発ができる。極端にいえば、ハードウェアは存在しなくともよいのである。まずシミュレータを作ってから開発にかかるという手法はマイクロソフトの伝統として定着する。

 交通量調査用の測定機を作るトラフ・オー・データの仕事はそこそこ成功した。

 1973年秋、ゲイツはボストンにあるハーバード大学へ進学した。彼は数学を専攻したものの、何をしてよいのか、分からなかったようである。カードゲームに明け暮れドロップアウトに近い状況にあったようだ。

 1974年、アレンはワシントン州立大学を中退して東海岸のボストンのハネウェルで働いていた。ビル・ゲイツとポール・アレンの2人はボストンでまた顔を合わせることになった。

 1975年1月号の『ポピュラー・エレクトロニクス』誌に、インテル8080を用いた世界初のマイクロコンピュータキットであるMITSのオルテアー8800の記事が載った。これが、マイクロコンピュータ革命の始まりである。次々にマイクロコンピュータキットが売り出され、一般のホビーストたちがマイクロコンピュータへ殺到することになる。

 『ポピュラー・エレクトロニクス』の記事に触発されたアレンは、ゲイツに8080用のBASIC開発を提案した。ビル・ゲイツは高校時代、すでにBASICインタプリタの開発を手掛けていたのである。ポール・アレンとビル・ゲイツはアルバカーキにあったMITSのエド・ロバーツにマイクロソフトBASICを売り込んだ。

 売り込んでから、ゲイツとアレンはハーバード大学のコンピュータセンターのPDP-10を使ってマイクロソフトBASICの開発を行った。ポール・アレンはインテル8008用のシミュレータを8080用に改造し、ビル・ゲイツは、これを使ってマイクロソフトBASICを書いた。

 学外者であるアレンがPDP-10を使用したことと、大学のコンピュータを使用して営利目的の製品を開発したことは後にかなりの問題となった。マイクロソフトは海賊版やコピーなどの不法行為に対してやかましいが、自身は不法行為に近いことを繰り返してマイクロソフト帝国の基礎を作ったのだ。

 ゲイツとアレンはオルテアー8800を実際に見たこともないのに、マイクロソフトBASICを開発した。これがシミュレータの威力である。

 アレンがアルバカーキに飛び、MITSのオルテアー8800にマイクロソフトBASICを持っていった。また、ブートストラッププログラムを忘れていたので、アレンが行きの飛行機の中、ハンドアセンブリングでそれを書いたともいわれている。

 アレンはそのままMITSに参加し、後にビル・ゲイツも加わった。この間、1975年に、ゲイツとアレンはマイクロソフトを設立する。マイクロソフトBASICで成功したマイクロソフトは次第に力を付け、MITSと決別して、自分の道を進み始める。この辺りの話は多くの本に書いてある。1979年、マイクロソフトはアルバカーキからシアトルへ移転する。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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