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IT業界の開拓者たち

第3回 マイクロソフトのパットン将軍

脇英世
2009/2/4

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 1980年、マイクロソフトに入社したスティーブ・バルマーを待っていたのは、突然降ってわいたIBMとの提携話であった。パソコン業界参入を決めたIBMは、IBM PC用にOSを書いてくれるソフトウェアハウスを探していた。ディジタル・リサーチはにべもなくIBMをはねつけた。苦境に立つIBMを見て、マイクロソフトはビジネスチャンスであるとして、OS開発への参入を決めた。交渉ごとに慣れたスティーブ・バルマーがSCP社とSCP-DOSの買収交渉を行った。買収価格はわずか5万ドルであった。マイクロソフト帝国の基盤を築いた製品の価格としてはずいぶん安い。このSCP-DOSがMS-DOSになった。

 年齢の割に老成して見えるスティーブ・バルマーは対IBM交渉で存在価値があった。当時のビル・ゲイツは子どもにしか見えなかったからだ。

 1984年、スティーブ・バルマーは非技術系出身にもかかわらず、ウィンドウズの開発を監督した。監督といっても、要するにスティーブ・バルマーはフットボールのコーチよろしく、全身を震わせて大きな声で叫びまくるだけなのである。ところがこれが意外に効果があった。そのためスティーブ・バルマーはパットン将軍と呼ばれるようになった。

 米国のジョージ・S・パットン将軍は、常に配下の戦車部隊に無謀なまでの攻撃と進軍を命令し、それがシシリー島攻略作戦でも、北仏進攻作戦でも意外に効を奏した。ただパットン将軍はシシリー島攻略作戦の後、陸軍病院を慰問したが、砲弾ショック症で入院していた兵隊を「臆病者」とののしって殴打してしまい、それを米国の従軍記者に書かれてしまった。かねて独断専行と批判を受けていたパットン将軍はこの事件で評判を落とした。

 従ってスティーブ・バルマーも、パットン将軍に似ているといわれるよりはナポレオンに似ているといわれることを好む。実際スティーブ・バルマーの発言として、

「平均的な人よりはナポレオンについてよく知っている」

というのがある。スティーブ・バルマーはビル・ゲイツほどヒステリックではないが、マイクロソフトの過剰なまでの戦闘性はスティーブ・バルマーの影響が大きいといわれている。

 スティーブ・バルマーが最も活躍したのは対IBM戦争だろう。後に、ビル・ゲイツと協力してIBMを打倒することになる。

 1981年、マイクロソフトはIBMに協力してMS-DOSを作ったが、IBMから見れば取るに足らない協力会社であった。1986年、マイクロソフトはIBMにマイクロソフトの株式の10%を買ってほしいと申し出たが、簡単にはねつけられた。当時のマイクロソフトはIBMにとって魅力のある存在ではなかった。

 1987年、IBMはOS/2の開発意向表明をした。マイクロソフトはOS/2の開発への潜り込みに成功する。ビル・ゲイツとスティーブ・バルマーは絶妙のコンビネーションで時間を稼ぎ、OS/2の開発の一方でウィンドウズの開発を継続していった。ビル・ゲイツとスティーブ・バルマーの遅滞戦術は成功し、OS/2は次第にウィンドウズに追い詰められていく。1990年のウィンドウズ3.0、1992年のウィンドウズ3.1でマイクロソフトは覇権を確立し、1993年に出現したウィンドウズNTは最初は苦戦したが、次第にOS/2の息の根を止めていく。

 スティーブ・バルマーは1991年日本に来たときに声が出なくなり、声帯の手術をしたらしい。風邪だと聞かされていたが、叫び過ぎたために声帯をつぶしたという。IBMとの戦いがいかに厳しかったかを物語るエピソードだ。

 スティーブ・バルマーの活躍は、1990年代前半でほぼ終息した対IBM戦争までであったろう。敵のなくなったマイクロソフトの前に立ちはだかったのは司法省と独占禁止法で、この場合の立役者はスティーブ・バルマーではなく法務担当副社長のウィリアム・ニューコムである。最近の報道写真でビル・ゲイツと一緒に一番多く写っているのはウィリアム・ニューコムである。スティーブ・バルマーの社長就任もウィリアム・ニューコムの突出とのバランスを考えている部分もあるといわれている。

 趣味はジム、ジョギング、バスケットボールであり、奥さんの名前はコニー、2人の息子がいる。ワシントン湖のそばに3700平方フィートの家を持っている。

■補足

 2002年4月、マイクロソフトはスティーブ・バルマーのビデオによる証言記録を公開した。シアトルのマイクロソフト本社第34号館、1563号室で2002年2月8日に撮影されたものの文書化記録である。327ページもある膨大なものだ。バルマーの戦術は一般的に健忘症ととぼけと、どう喝といわれているが、証言では遺憾なくバルマーの才能が発揮されている。明確な事実でも、記憶にありません、忘れていましたを繰り返し、検事に証拠を突き付けられると、たちまち事実を思い出す。こういうしたたかでやり手な男を相手にビジネスをした人たちは、さぞかし大変だっただろうなあと同情の念を禁じ得ない。

 いくら証言記録を克明に読んでも純技術的にはまったく得るところがないのは残念だ。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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