第3回 マイクロソフトのパットン将軍
脇英世
2009/2/4
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
スティーブ・バルマー(Steve Ballmer)――
マイクロソフト社長兼最高経営責任者
スティーブ・バルマーはマイクロソフトのナンバー2である。
マイクロソフトの歴代社長は、1977年から1982年がビル・ゲイツで、1982年から1983年がテクトロニクスから来たジェームズ・C・タウニ、1983年から1990年がタンディから来たジョン・シャーリー、1990年から1992年がボーイングから来たマイケル・ホールマンであった。さらに1992年から1996年がスティーブ・バルマー、フランシス・ゴーデット、マイケル・メープルズの3人の上級副社長による集団指導体制、1996年から1998年がビル・ゲイツ、スティーブ・バルマー、ボブ・ハーボルド、ピート・ヒギンズ、ポール・マリッツ、ネイサン・ミアボルド、ジェフ・ライクス、ジム・アルチン、ブラッド・シルバーバーグなどの集団による執行委員会制である。
そして1998年7月21日、スティーブ・バルマーが新社長に輝いた。入社後18年を経て、ついにトップの座に就いたと見ることもできる。ただ少し事情は変わってきている。
スティーブ・バルマーの母方の祖父はロシアからの移民で自動車の中古部品ディーラーであった。父親はスイス人で、ニュールンベルグ戦争裁判で通訳として働き、その後、米国に渡ってフォードの事務員となり、最後は財務アナリストになった。父親が米国に移住したのは第二次大戦後のことらしい。父親と母親との接点は自動車にあったようである。
スティーブ・バルマーはデトロイトの郊外のミシガン州フラミントンヒルズで成長した。2人兄弟で弟がいる。私立高校に通い、数学が得意で、バスケットボールファンであった。意外に思うことだが、運動はほどほどにしかやらなかったらしい。
1974年スティーブ・バルマーはハーバード大学に入学する。ビル・ゲイツとは同じ寄宿舎にいたが、出会いは『時計仕掛けのオレンジ』『雨に唄えば』 の2本立てを一緒に見に行ったことだったという。ほぼ正反対の性格の持ち主同士であったが、2人は意気投合した。
ハーバード大学では、フットボールチームのマネージャ、文芸雑誌の編集者、大学新聞のマネージャを兼ねるという積極的な活躍ぶりであって、人付き合いも極めて良かった。この点ビル・ゲイツと対照的であった。ビル・ゲイツは、ハーバード大学ではあまり積極的な学生ではなく、たまにポーカーを夢中にやる程度だったらしい。
1974年12月『ポピュラー・エレクトロニクス』誌の1975年1月号の表紙にニューメキシコのアルバカーキに本拠を置くMITSのオルテアー8800の写真が出た。インテル8080を搭載したマイクロコンピュータキットである。ビル・ゲイツの年上の親友ポール・アレンはハネウェルに勤めており、ハーバード大学のあるボストンにいた。
ポール・アレンはこの記事を見て、オルテアー8800用のBASICを自分たちが開発すべきだと考えた。
2人は必死にBASICを開発した。1975年2月、ニューメキシコのアルバカーキに飛んだポール・アレンは、それまで触ったことすらなかったオルテアー8800上でBASICを走らせることに成功する。こうして誕生したマイクロソフトBASICは、当時としては大成功を収める。
ビル・ゲイツは2年ほど逡巡するが、1977年2月、ハーバード大学を中退してマイクロコンピュータ業界に身を投じる。
しかしスティーブ・バルマーはもっと平凡な学生生活を送り、応用数学でハーバード大学の学位を取った。ハーバード大学を卒業すると、プロクター&ギャンブルにアシスタント・プロダクト・マネージャとして就職した。プロクター&ギャンブルには2年勤めたが、「長くいるところではない」と辞めて、スタンフォードビジネススクールに入った。1980年、スタンフォードビジネススクールに半年いたところで、ビル・ゲイツから電話をもらった。ビル・ゲイツは自分を補佐して、社員を管理してくれる信頼できる人材が欲しかったのである。
スティーブ・バルマーは年収4万ドル、マイクロソフトの株式を最高10%まで買えるという条件でマイクロソフトに入社することになった。スティーブ・バルマーの職はオペレーションズ・マネージャであった。
ただこのスカウトについては、古参の社員から文句が出たようである。平たくいって株式の権利をもらうことをストックオプションというが、マイクロソフトではストックオプションの権利をもらったのはスティーブ・バルマーが初めてである。ところが自分ではマイクロソフトに貢献したと考えている人々でもストックオプションの権利をもらっていなかった。そういう意味ではスティーブ・バルマーは初めからマイクロソフトに経営幹部として入社した人なのである。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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