第8回 WYSIWYGを普及させたプログラミングの神様
脇英世
2009/2/12
マイクロソフトに赴任したチャールズ・シモニュイは、同社のアプリケーション開発部長となる。ここでは、スプレッドシートプログラム(表計算ソフト)の開発が最初の仕事になった。このとき、マイクロソフトが採った戦略は2つある。「IBM PCの標準的な64KバイトのRAMという制限を守る」と、「他機種にも対応できるようにC言語でプログラムを開発する」というものだ。この戦略の下、開発された表計算ソフトのマルチプラン(Multiplan)は、1982年夏に発売された。マルチプランは大ヒットとなり、たちまちビジカルクを脅かすほどの存在にのし上がったが、マイクロソフトの喜びは、ほんの束の間のことだった。
1982年12月、ロータスがロータス1-2-3を発表すると、マルチプランはたちまち苦境に陥ってしまう。このときのロータスの開発方針は非常に明確である。1つは「IBM PCの標準的なメモリを無視し、256KバイトのRAMを要求する」というもので、もう1つは「IBM PCでだけ動かすため、アセンブリ言語で開発する」というものだった。
このような方針を採った場合、誰の目にも明らかなように、IBM PC上では、ロータス1-2-3の方が絶対に動作速度が速い。これに対して、マイクロソフトは1984年2月に、マルチプラン1.1を出してロータス1-2-3の追撃を狙った。さらに1985年10月にマルチプラン2.0を出し、1987年1月にはマルチプラン3.0を出してロータス1-2-3に追い付こうとするが、相変わらず動作は遅く、追撃どころか、水をあけられるばかりでまったく勝ち目がなかった。マルチプランがわずかに光を放ったのは、ヨーロッパのように多様な言語を持つ文化圏内で、ローカライズがしやすいという長所を生かして健闘したことだけだった。C言語で書かれたマルチプランは移植性が良く、いろいろな国の事情に合わせて変更するのも容易で、多様な環境に素早く対応できたからである。
一方、ワープロソフト市場では、マイクロプロが1977年に発売したワードスターが圧勝していた。マイクロソフトは、ワードスターの独り勝ちに歯止めをかけるべく、チャールズ・シモニュイの指揮下で、ワード(Word)の開発に取り掛かった。ワードスターはアセンブリ言語で書かれていたのに対し、マイクロソフトはワードの開発にC言語を使用することにした。
1983年4月、マイクロソフトはワードを発表し、10月に発売する。しかし、これは成功とはいえなかった。さらに1984年4月に改良版のワード1.1、10月にワード1.15、1985年2月にワード2.0と立て続けにリリースするが、どれも使いにくく失敗だった。マイクロソフトのワードは、逆にワードパーフェクト社のワードパーフェクトに追い抜かれ、さらに下位へと転落してしまう。マルチプラン、ワードと打ち続く敗北は、マイクロソフトの首脳陣をかなり失望させたに違いない。いまから考えると、この失敗は、ハンガリー記法などに象徴されるチャールズ・シモニュイの伝説的技量を過大視した点に一因があるように思う。
マイクロソフトは、マルチプランに代わる暗号名オデッセイ(後のエクセル)という新しい表計算ソフトの開発を目指したが、今度はチャールズ・シモニュイに代わって、マーケティング担当のジェイブ・ブルメンソールが指揮を執った。大衆心理をよく理解したマーケティング主導型の開発に変わったのである。結果エクセルの開発は成功し、マイクロソフトはアプリケーションソフトにおける長い敗北の歴史に終止符を打った。このエクセルの成功はチャールズ・シモニュイの手柄のように錯覚されているところもある。
1991年、チャールズ・シモニュイはマイクロソフト研究所に移り、インテンショナル・プログラミングの研究に打ち込んでいる。ビル・ゲイツに気に入られ、初期にマイクロソフトに引き抜かれた大物プログラマなので、ストック・オプションなどで手に入れて保有していたマイクロソフトの株式も相当なものだ。総額は15億ドル程度、日本円に換算すると1500億円相当だといわれる。
ビル・ゲイツの家の大きさは4万8160平方フィートであるが、ビル・ゲイツの家の近くにあるチャールズ・シモニュイの家も2万2000平方フィートと大きい。大きいことの好きな米国でも、1万平方フィート以上の家というのは数少ないだろう。大きいだけでなくガラスと鉄骨で作られた家は、外観も素晴らしいようだ。この豪壮な家の内部を飾るべく、チャールズ・シモニュイは高価な美術品を収集している。同じハンガリー出身の画家の絵画を中心に集めているらしい。もちろん、社会に対する還元も忘れず、慈善事業などにも多額の寄付をしている。
マイクロソフトでの研究は引き続き行っているようだが、やはり、これだけ満ち足りてしまうと、迫力のある仕事はできないようだ。無理もないことだろう。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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