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IT業界の開拓者たち

第8回 WYSIWYGを普及させたプログラミングの神様

脇英世
2009/2/12

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

チャールズ・シモニュイ(Charles Simonyi)――
プログラマ

 チャールズ・シモニュイは1948年9月10日、ハンガリーのブダペストに生まれた。父親は、ブダペスト工科大学の電気工学科の教授である。後に伝説的なプログラマとなる男が初めてコンピュータに出合ったのは15歳のときのことだったが、当時ハンガリー国内には、わずか5台しかコンピュータがなかったといわれている。その中でチャールズ・シモニュイが触ったのは、ソ連製のウラルIIというコンピュータであった。ウラルIIはメモリが4Kバイトで、浮動小数点が40ビット、固定整数演算は20ビットであったという。トランジスタが採用される前の世代のコンピュータで、電子素子に数千本の真空管を使用し、オレンジ色のガス放電ライトが付いていた。いまでは考えられないことだが、電源を投入する際に、必ず真空管が何本か飛ぶため、ウラルIIはずっと電源を切らずに運用されたと伝えられている。従って、昼夜問わずコンピュータの電源をオンの状態で維持するため、夜間ウラルIIの監視を行う要員が必要となった。チャールズ・シモニュイが非公式ながら、その保守要員になれたのは、電気工学科の教授である父親がいたからこそである。こうして誰もいない深夜に、普通なら容易に触れることのできないウラルIIで、プログラミングに打ち込めたのだった。チャールズ・シモニュイが組んだ最初のプログラムは、1964年に手掛けた80×80の魔方陣プログラムであったという。プログラム入力はすべてコンソールのスイッチを押すもので、大変な労力が必要だったと思われる。

 高校を終える1966年ごろには、高級言語用のコンパイラを書き上げていたというから、並みの才能ではなかったのだろう。このときのコンパイラは国家機関に売ったとのことだ。

 16歳になったチャールズ・シモニュイは、ブダペストで開かれた見本市で、デンマークからやってきたコンピュータ技術者に出会った。そして、彼に自分の作ったプログラムを渡して、デンマークで担当者に見てもらいたいと頼んだ。その結果、彼らに見込まれて、仕事をもらえることになったという。

 こうしたいきさつで、チャールズ・シモニュイは1967年、デンマークへ向けてハンガリーを後にする。1956年にハンガリー動乱があったばかりで、出国はそう容易なことではなかったようだ。また当時のハンガリーには徴兵制があり、チャールズ・シモニュイにも兵役の義務があったが、幸運にも、うまくデンマークへ出国しコペンハーゲンのA/Sレグネセントラーレンという会社に職を得ることができた。一方、息子が兵役を逃れたという理由で、父親は大学教授の職を追われてしまったらしい。

 A/Sレグネセントラーレンでチャールズ・シモニュイが扱ったコンピュータは、プロセス制御用のRC4000だったらしい。OSのカーネルはパー・ブリンチ・ハンセンという人物により、アルゴル(Algol)という言語で書かれていた。チャールズ・シモニュイはRC4000のマニュアルを出国前から徹底的に勉強し、パー・ブリンチ・ハンセン自身とRC4000のOSについて一緒に研究したといわれている。その辺の事情はあまり定かでないが、チャールズ・シモニュイは、1年半の間デンマークで働いて貯金したお金で、今度は米国へ渡った。

 米国に到着したチャールズ・シモニュイはカリフォルニア州立大学バークレー校に入学した。食べてゆくためにBCC(バークレー・コンピュータ)という会社に入社したものの、1970年11月に同社は倒産してしまう。しかしその後、NASA(米国航空宇宙局)のエイムズ研究センターでイリアックIV(IlliacIV)という並列計算機の開発に参加することになった。

 1972年、BCCの仲間とともにチャールズ・シモニュイは、ゼロックスPARC(パロアルト研究所)に就職する。国防総省のARPA(先進研究計画局)からきたロバート・テイラーの勧めでPARCに入所したのだった。チャールズ・シモニュイのPARCでの業績としては、ブラボー(BRAVO)というWYSIWYG(見たままに出力される)形式のエディタがあまりにも有名であろう。面白いことにブラボーはGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を持っていなかったので、別途GUIとしてジプシー(Gypsy)が開発された。

 PARCでチャールズ・シモニュイがかかわった最初の仕事である、ネットワーク関係の研究開発では、SIGnet(Simonyi's Infinitely Glorious Network:シモニュイの無限に栄えあるネットワーク)を作った。もっともSIGnetは歴史の脚注に残っただけで、すぐにロバート・メトカルフェの開発したイーサネットに置き換えられてしまう。

 PARCには8年間在籍し、この間、スタンフォード大学にメタ・プログラミングについての論文を提出し、博士号を取得している。だが、1980年ごろ、チャールズ・シモニュイはPARCから出ていくことを考え始めた。同僚に表計算ソフトのビジカルクが走るコンピュータ、アップルIIを見せられ、大いに心が動かされたといわれる。そこでチャールズ・シモニュイはPARCの先輩であるロバート・メトカルフェに相談した。メトカルフェはチャールズ・シモニュイを昼食に誘ったが、そこには訪問者リストが用意されていて、これから訪ねるべき10人の人物の名が書き連ねられていた。その先頭にあったのがマイクロソフトのビル・ゲイツであった。

 ワシントン州ベルビューに出掛けていく機会があったときに、チャールズ・シモニュイはビル・ゲイツを訪ねた。2人は会うやたちまち肝胆相照らす仲になり、その後チャールズ・シモニュイは2度ビル・ゲイツを訪ね、ビル・ゲイツも1度PARCにチャールズ・シモニュイを訪ねている。ちなみに、この訪問の際に、ビル・ゲイツは後のパソコンの発展に影響を与えたといわれるALTOというコンピュータを見せられたという。そして、1981年2月、チャールズ・シモニュイはマイクロソフトに入社する。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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