第9回 ロックとマックとニュートンのはざまで
脇英世
2009/2/16
さて、ここがジョン・スカリーの変わったところなのだが、ジェネラル・マジックを支援しながら、ジョン・スカリーはスティーブ・キャップスにニュートン計画を指揮させる。このころニュートンは2つのプロセッサを搭載し、VGAサイズの画面を持つLISPベースのマシンとして計画されていた。スティーブ・キャップスがジョン・スカリーに見せたデモは、ビル・アトキンソンのハイパーカードスタックを使ったものであった。
ニュートンのプロセッサをARMにしたのはマイク・カルバートである。
ジャン・ルイ・ガッセーが辞めた後、マーケティング担当のマイケル・チャオがアップルに入ってきた。マイケル・チャオがスティーブ・キャップスとジョン・スカリーの橋渡しとなった。マイケル・チャオのおかげでスティーブ・キャップスのニュートンは、スカリーお気に入りのプロジェクトとなる。またマイケル・チャオは日本によく出掛けた。ある時、キヤノンやSONYのPDAを持って帰ってきた。それをスティーブ・キャップスのニュートン開発チームは分解して徹底的に調べたようだ。
当時モバイルの分野では、GO、ジェネラル・マジック、アップルの3社が目立っていた。GOは1987年8月に、ジェリー・カプランが中心となって設立した。GOが目標としたのはペンコンピュータであった。1988年7月、ジェリー・カプランにペンコンピュータの試作機を見せられたマイクロソフトは、すぐさまウィンドウズ・フォー・ペン、すなわちペンウィンドウズの計画を立ち上げた。1992年4月にGOからペンOSであるペンポイント(PenPoint)1.0が発表される。高機能だが、ペンコンピュータに載せるにはプログラムのサイズが大き過ぎた。しかし熱狂的な歓迎を受けた。アップルもGOのこうした動きを座視できなかった。
1992年5月、アップルはCESでニュートンを発表し、これまた大きく注目を集めることになる。しかしニュートンOSもニュートンスクリプトも機能的には十分とはいえない状況にあった。
1992年中に、マイクロソフトのペンウィンドウズ開発の失敗がほぼ明らかになる。マイクロソフトが正式にペンウィンドウズの失敗を認めるのは1995年になってからだが、手書き文字認識はマイクロソフトの予想を超えて困難なものの1つであった。
ジェネラル・マジックのマシンは、電子メールマシンで、アップルのニュートンはフォームベースのマシンであった。ペン入力の手書き文字認識にはモスクワのパラグラフ・インターナショナルのステパン・パチーコフの技術を使った。随分思いきったことをするものである。ステパン・パチーコフは、ファジー集合論理とファジー言語でモスクワ大学からPh.Dを得ていた。ペレストロイカの影響でステパン・パチーコフはベンチャー企業経営に乗り出した。手書き文字認識に興味を示したのはスイスの心理学者ジャン・ピアジェの本を読んで、子どもの知能指数増進を狙ってのことという。手書き文字認識技術の売り込みは大変で、どこへ行っても断られた。面白いのはNeXTのスティーブ・ジョブズの反応で、彼は手書き文字認識をまったく信用せず懐疑的であったという。ステパン・パチーコフは最後にアップルに行き、ラリー・テスラーとスティーブ・キャップスに会った。1991年7月、アップルはステパン・パチーコフの手書き文字認識技術を50万ドルでライセンスする契約を結んだ。
1993年8月、マック・ワールドでニュートンは正式にデビューした。しかしニュートンの最大の支援者であったジョン・スカリーは、わずか2カ月後の1993年10月にアップルを辞めてしまう。ニュートンは苦戦を続けることになる。1994年1月、AT&Tの支援を受けGOから分離したEOは、GOを吸収合併する。1994年7月、AT&TはEOの閉鎖を決定し、GO系列のペンコンピュータは消滅した。
1994年1月、サンフランシスコのマリオットホテルでビル・アトキンソンとアンディ・ハーツフェルドによってジェネラル・マジックのマジックキャップとテレスクリプトが正式に発表される。
1995年2月10日、ジェネラル・マジックが株式を公開すると、ジェネラル・マジックの株価は売り出し価格の14ドルから一挙に32ドルまで跳ね上がった。しかしそれも束の間、2週間で16ドルに下げ、2カ月後には12ドルまで下げた。株価はこの後ひたすら下がり続ける。
1996年11月、テレスクリプト技術を使ったAT&Tのパーソナルリンク(PersonalLink)サービスも中止になった。ジェネラル・マジックの当初の計画は挫折する。
1996年6月、スティーブ・キャップスは同じニュートン部隊のウォルター・スミスとアップルを去り、マイクロソフトに入社した。ウォルター・スミスはニュートンスクリプトを開発した人物である。スカリーなき後、ニュートンは継子扱いであり、スティーブ・キャップスもアップルでの居心地は良くなかったのだろう。
さて、その後のニュートンの運命について一言しておこう。1997年5月、ギルバート・アメリオは超赤字部門のニュートン部門を独立の子会社ニュートン・インクとして分離した。1997年9月、ギルバート・アメリオを追放しアップルの実権を握ったスティーブ・ジョブズは、ニュートン・インクをアップル本社に吸収した。1998年2月、スティーブ・ジョブズはニュートンOSの開発をやめた。ここにニュートンは決定的に消滅した。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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