第10回 ネットスケープの空気の補給を断った男
脇英世
2009/2/17
「ネットスケープの空気の補給を断つ」という件については、1999年1月25日の口頭審問でも司法省の検事に尋問されている。これに対し、ポール・マリッツは準備したとおりに答えた。
「私はインテル関係者やそのほかの人の前で、マイクロソフトが『ネットスケープの空気の補給を断つ』とか、同じ効果を持つ言葉を話したことはありません」
ところが、1998年10月2日の審問でポール・マリッツは以下のように答えている。
「そういったことは記憶にありません。が、あり得ることです。でも思い出せません」
検事が怒って追及する。
「あなたの記憶が10月よりいまの方が確かだというのは、公正といえるのか」
したたかなポール・マリッツは切り返す。
「私は矛盾しているとは考えていません」
すべての口頭審問を、冷静で長い哲学的な答弁で引き延ばし、一切具体的な事実を語らないのがポール・マリッツの法廷戦術である。このため、検事は同じ質問を6回もニュアンスを変えて行わねばならなかった。弁護側から「ポール・マリッツは、すでにその質問に答えている」と異議が出るが、裁判長に却下される。実際に何も答えていないからだ。
ポール・マリッツの直接審問書は、ソフト業界の競争の本質や、マイクロソフトの大量販売と低価格設定というビジネスモデルで始まる。マイクロソフトが独占禁止法に抵触しているという批判を逃れるためには、ライバルは消滅しておらず、マイクロソフトはまだ競争にさらされているということを証明しなければならない。そこで直接審問書は、マイクロソフトウィンドウズのライバルについて、かなりのスペースを割いている。例えばMacOS、UNIX、Linux、Apache、OS/2、Java、ネットスケープブラウザ、ロータスノーツ/ドミノに限らず、MachやTRONにまで話が及ぶ。Javaを奉じるサン・マイクロシステムズ連合とLinuxがマイクロソフトの最大の敵に成長してきたことをポール・マリッツはよく認識している。
さらに、マイクロソフトはほかのメーカーとの共同謀議によって独占を維持しているという批判に答えるため、インテルとの関係、アップルとの関係、ネットスケープとの関係について述べている。
司法省側の証人に、インテルの副社長スティーブン・マクギーディがいる。マクギーディが今回マイクロソフトにとって最大の敵となった。1995年、マクギーディ率いるインテルのIAL(Intel Architecture Laboratory:インテル・アーキテクチャ研究所)は、700人の研究員を擁していた。IALは、当時NSP(Natural Signal Processing)の概念を打ち出していた。これはデジタル信号処理をハードウェアでなく、すべてソフトウェアで処理させようというものであった。NSPの開発が進んでいることに気が付いたマイクロソフトのビル・ゲイツとポール・マリッツは、NSPの開発に待ったをかけた。NSPはウィンドウズ3.1対応で、ウィンドウズ95対応でないというのが表向きの理由である。ただNSPは、ネイティブオーディオやIA-SPOXなど非マイクロソフト的なアーキテクチャを採用していた点に問題があったかもしれない。「ネットスケープの空気の補給を断つ」という言葉は、このときにポール・マリッツがマクギーディに語った言葉なのである。結局、インテルはマイクロソフトの要求をのみ、NSPの開発を中止しただけでなく、マクギーディの責任者の地位を解き、IALの再編を行った。
インテルがMMXを開発したときにも同じようなことがあった。マイクロソフトはインテルのMMXサポートをなかなか行わなかった。インテルがJavaのサポートを計画したり、Be、NeXT、ネットワーク・コンピュータ、レッドハットといった非マイクロソフト各社に保険をかけ始めていたからである。表向き、マイクロソフトは、インテルが338特許(米国特許4972338に由来する)というマイクロプロセッサシステム用のメモリ管理に関する特許によって、AMDやCyrixへの参入障壁を築こうとしているとした。ビル・ゲイツとポール・マリッツは、非マイクロソフト系アーキテクチャへの浮気をやめない限り、MMXサポートも将来のインテルプロセッサへのサポートも行わないとした。結局、これもインテルがマイクロソフトに従う形になる。
そのほかにもマクギーディは、ビル・ゲイツが1995年当時、「独占禁止法訴訟の結果なんて吹き飛んでしまうさ。われわれはビジネス慣行をまったく変えていない」と語ったことも証言している。
スティーブン・マクギーディは難しい立場にある。インテルはマイクロソフトと積極的な関係を続けなければならず、組織としてはマクギーディが邪魔なのである。インテル内部からは「プリマドンナ」、マイクロソフトの広報からは「インテルの中の一匹オオカミ」と呼ばれている。さらにマイクロソフトの弁護団は、マクギーディがネットスケープのジム・クラークと電子メールのやりとりをしていたことや、インテルのアンディ・グローブのことを「マッドドッグ・グローブ」と呼んでいたことも暴露した。マイクロソフトに逆らう証人になるのも勇気のいることである。しかし、本当はそれこそが独占の弊害なのである。
ポール・マリッツはマイクロソフトの株式を340万株所有していた。1999年前半に90万株を売却した。その額は7800万ドルに及ぶ。普通、マイクロソフトの幹部が株を売却し始めるのは、退社の前兆である。このとき、ポール・マリッツもマイクロソフト退社を決意していたのだろう。
退社の理由としては、独占禁止法裁判による疲労と、行き詰まりを感じたことではないかといわれている。行き詰まると必ず家庭をなおざりにしたことが悔やまれるようだ。ポール・マリッツには奥さんと3人の子どもがいる。ワシントン州ベルビューの350万ドルの大邸宅とカマノ島の別荘で家族と過ごす日々が増えた。良き夫、良き父に戻ろうとしたのである。
また、ポール・マリッツは生まれ故郷のザンビアに大牧場を持っており、そこで余生を過ごしたいと思うようになったといわれている。アフリカの人たちによる民族解放のための武装闘争は続いているし、1999年夏、奥さんと現地を訪問したときには、奥さんが毒蛇に襲われ、ポール・マリッツ自身もマラリアにやられたりとさんざんであったが、故郷に帰りたいという思いは抑えられないらしかった。
米国に戻ると、ポール・マリッツはビル・ゲイツに年末には退社したいと申し出た。実際の退社は2000年9月であった。ポール・マリッツは公式にはマイクロソフトのコンサルタントにとどまっているとされているが、退社したことは退社したのである。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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