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IT業界の開拓者たち

第11回 マイクロソフトの法王

脇英世
2009/2/18

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 1985年、ウィリアム・ニューコムはマイクロソフトに入社し、法務および総務部門担当副社長に就任した。小さな企業が法務担当を置くことは、株式上場の準備を意味する。最初にすべき仕事は株式上場に当たっての法的問題を解決することだったが、実際の初仕事は、マッキントッシュの技術をウィンドウズで使用するため、アップルと交渉を行うことであった。

 1986年、マイクロソフトの株式上場は成功した。ウィリアム・ニューコムも自社株を取得しており、1992年には資産が2100万ドルになった。さらに、1998年には100万株、1億ドル以上の資産に成長している。現在では、これ以上に増えているのだろう。

 この年の2月には、シアトル・コンピュータ・プロダクツのティム・パターソンがマイクロソフトを提訴している。CP/Mを模倣してSCP-DOS、つまりMS-DOSの原型を作った人物である。この訴訟はティム・パターソンの勝利で終わったことになっているが、和解金は1億ドルで済んだ。この場合の1億ドルは非常に安く、むしろマイクロソフトの勝利といっても過言ではない。以後、相手にプレッシャーを与えて和解金を低額に抑えるという戦術がマイクロソフトの訴訟スタイルとなる。

 1988年、マイクロソフトはマッキントッシュのGUIを不正にコピーしたとして、アップルによって告訴された。この裁判は最高裁にまでもつれ込んだが、結局はマイクロソフトがほぼ全面的に勝訴する。個人的に、この判決には多少の疑問が残ったことは否めないが、ともかく、この裁判の過程でウィリアム・ニューコムは裁判を引き延ばすという戦術を体得した。裁判を引き延ばしていけば、その間に相手が勝手に自滅するという寸法である。

 1989年、FTC(連邦取引委員会)は、マイクロソフトが独占禁止法に違反しているのではないかと捜査を開始した。次第に巨大になりつつあるマイクロソフトの圧力に耐えかねたソフトウェア業界から訴えが出ていたからだという。ただしFTCによる調査は、1989年11月のIBMとマイクロソフトの共同声明が独占禁止法に抵触しているという判断から始まっていた。こうしたことからも、当時のFTCによる調査はピント外れだったように思える。

 1990年4月、FTCのケビン・アーキッド市場競争局局長は、ウィリアム・ニューコムに独占禁止法違反容疑で捜査を進めていることを通告した。しかし、ウィリアム・ニューコムは引き延ばしを図り、ぬらりくらりと対応して時間稼ぎをした。結局、FTCによる調査は、腰砕けに終わる。1993年7月のことだった。

 ここで、FTCの調査を引き継いだのが司法省だった。ここでも、ウィリアム・ニューコムは執拗な引き延ばしと骨抜き作戦で司法省を翻弄していく。具体的には、最初はあくまで拒絶する姿勢を見せ、交渉期限間際になって条件を出し、妥協を要求して、さらに交渉を継続させるというパターンを繰り返した。司法省は時間を空費して、国民の税金を無駄遣いしているという批判に苦しんだ。こうして、司法省も息切れし、1994年7月には同意審決に到達した。

 1997年10月、司法省はマイクロソフトが1995年の独占禁止法訴訟の同意審決を無視しているとして、法廷侮辱罪で第2次訴訟を起こした。同年12月にトーマス・ペンフィールド・ジャクソン判事は、マイクロソフトに仮処分命令を出したが、ここでも裁判が長期に及んでいくうちに、相手が自滅するという、これまでの結果どおりとなった。結局、控訴審で逆転無罪を勝ち取り、裁判はマイクロソフトに有利な形で決着している。

 そして1998年5月、連邦政府と全米20州(後に19州)の連合軍が第3次訴訟を起こした。当初、負けるはずのない裁判であるとマイクロソフトは鼻息が荒く、ほとんどすべての評論家も同社の圧倒的勝利を予想した。ところが、意外なことに1999年1月末にはマイクロソフトの形勢不利が明確になった。司法省に追い込まれた原因は、電子メールの分析結果によるところが大きい。そして1999年2月、マイクロソフトが裁判所に提出したビデオは証拠として問題がある品だった。それも2度、である。ここで、裁判長は勝負があったとの心証を持ち、和解を勧めた。しかし、マイクロソフトは得意の引き延ばし戦術で対抗した。結局、和解交渉はうまくいかなかったようである。

 2000年1月12日には司法省がマイクロソフトの分割を考えていると報道された。そして、翌13日にはマイクロソフトの会長ビル・ゲイツが最高経営責任者の職を辞している。

 2000年4月、連邦地裁のジャクソン判事は、マイクロソフトがシャーマン法(*注)に違反したという判決を下した。さらに6月、ジャクソン判事はマイクロソフトをOSとソフトウェア・アプリケーション会社の2つに分割するよう命令した。マイクロソフトは直ちに連邦控訴裁判所に控訴した。マイクロソフトの期待どおり、連邦控訴裁判所はこれを直ちに受理した。この時点で判決は分かったようなものだが、2001年6月28日、連邦控訴裁判所はマイクロソフトに対する分割命令を破棄し、またマイクロソフトがOS市場で不正に独占状態を維持していたという判決を下した。勝ち負けなしである。

*編集部注)米国の独占禁止法である反トラスト法の1つ。不当な取引制限、不当な独占などを禁じる。

 ウィリアム・ニューコムは実に好戦的な訴訟指揮をする。少々いい過ぎかもしれないが、国家や司法省、裁判所の権威などお構いなしといった勢いである。これまで負けた裁判はいくつかあるが、大きなものは1993年にスタック社との間に起きた裁判くらいのもので、それも1億2000万ドルの罰金だけで済んだ。この裁判の結果、マイクロソフトと争うのは、ナイフを持ったけんかのようなものだと恐れられた。この話はCBSの「アイ・ツー・アイ」という番組に収録され、日本でも何度か放送されているので、ご存じの方も多いだろう。番組の司会者を務めていたコニー・チャンは、「どうして、マイクロソフトはそんなに嫌われるのですか」と質問して、ビル・ゲイツを激怒させた。後に、コニー・チャンは退社したので、裏で圧力がかかったのかもしれないと一部で話題になっている。もちろん真偽は不明だ。

 ウィリアム・ニューコムは確かにやり手で、これまでの裁判ではほとんど負け知らずでやってこられたが、その代償も大きかった。それは、マイクロソフトは好戦的な悪の帝国であるというイメージが、一部に定着してしまったことである。これは企業のイメージ戦略としては、かなりのマイナスだろう。これまでは仕方のないことで済んだかもしれないが、世界を代表する大企業にふさわしい態度に改めるべきだ、とささやかれているのも事実である。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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