第12回 ウィンドウズ NT開発者からレーサーへ
脇英世
2009/2/19
どうして、ディビッド・カトラーが表面に出てこなくなったかを推測すると、まず、極端なマスコミ嫌いということが挙げられる。そのような伝説が作られているからだ。でも多分、これは本当ではないだろう。後述するが、ディビッド・カトラーは極端なまでに出たがり屋さんなのだと思われる。
次の可能性は、とっくにマイクロソフトを辞めてしまって隠遁しているか、同社の中で飼い殺しになっているということである。どれほどマスコミ嫌いであろうと、もしウィンドウズ NTや同2000の開発に関与していれば、必ず彼の考えが漏れてくる。8年間という長期にわたって、何も伝えられてこないというのは、これらの開発に関与していないということだ。ただ、それをどう証明すればよいのかは、難しい問題である。このようなことは名誉の問題もあるので、慎重に取り組みたい。
最初のヒントは、インターネット上のディビッド・カトラー・ファンクラブにあった。長い間更新されていないホームページだが、ここにディビッド・カトラーの情報がいろいろと書いてあったのだ。でも、そこで入手できる情報の大体は知っていることだった。父親がニール・カトラーで、母親がアーリナ・カトラーであるというような出生は、ほかの資料にも書いてある。
ほかの資料で見掛けなかった情報は、1998年10月13日、テキサス州ヒューストンで開かれたテキサコ・グランプリにおいて、トヨタの真紅のレーシングカーとともに写っている写真だ。真紅の車体にはBBSやBOSCH、MCI、KOOLと並んでMicrosoft(マイクロソフト)と白い文字で書かれている。DAVE CUTLERと自分の名前も書き込まれている。半ズボン姿で、ちゃんと写真にもポーズをとって納まっている。
真紅のレーシングカーに乗るような人が、どうしてシャイなのだろう。むしろ出たがり屋さんなのではないかと思った。また、マイクロソフトと車体に書かれていることから、1998年当時にディビッド・カトラーがマイクロソフトを辞めていないことは確認できた。
しかし、1998年10月という時点はウィンドウズ 2000の開発にとって非常に苦しい時期で、もし本当に開発に関係していたのであれば、レーシングカーに乗っていられるような時期ではなかったはずだ。ここで息抜きという考え方もある。開発のつらさをレーシングカーに乗って晴らしているのかもしれない。しかし、写真に写っているレーシングカーは何週間かの調整を必要とするようなデリケートな車である。息抜き程度には、とても思えない。趣味の範囲をはるかに超えているのだ。
そこで、ディビッド・カトラーについてコンピュータ関連以外の情報、特に自動車レースの結果を調べ直してみた。すると、レース出場記録が続々と見つかった。ここではその一部を抜粋する。
- 1997年2月28日、マルボロ・マイアミで21位
- 1997年3月2日、クール・トヨタ・アトランティック・シリーズで12位
- 1997年4月14日、クール・トヨタ・アトランティック・シリーズで21位
- 1997年8月1日、ケベックで開かれたグランプリで23位
- 1997年8月29日、クール・トヨタ・アトランティック・シリーズで20位
- 1997年9月5日、トヨタ・グランプリ・モンタレーで23位
これらのレースに出場したのが同姓同名の別人ではなく本人であることの確認は、公式記録を見れば明らかだ。「ディビッド・カトラー、ワシントン州メディナ在住、勤務先はマイクロソフト」と記録に残されている。
また、アトランティック・シリーズの1999年版ドライバーズ名鑑によると、ディビッド・カトラーのプロフィールは、生年月日1942年3月3日、ミシガン州ランシング生まれ、ワシントン州メディナに在住している、と書いてあった。
同名鑑には、さらに細かい背景情報と個人情報が提供されている。背景情報には以下のようにあった。ディビッド・カトラーはレーシングに比較的新しく参入しており、1994年と1995年のラッセル・チャンピオンシップ・シリーズおよび、USACラッセル・トリプル・クラウン・シリーズに2年間出場した経験がある。また、1995年のスター・マツダ・シリーズで走り、サンディ・デルズ・レーシングのチームメートとともにアトランティックのイベントで10回走った。アトランティック・スタンドアウト・ケース・モンゴメリーでは、ホームステッドとミルウォーキーにおいて、シーズンでベストとなる12位を記録した。1997年のアトランティックシーズンでは一貫したパフォーマンスを示しており、通算では21位であった。ハイライトとしてはホームステッドで12位、ナザレ、モントリオール、バンクーバーで13位を3回記録した。1998年はヒューストンのファイナルのみで走り、結果は22位に終わっている。
続いて、個人情報をまとめると次のとおりだ。マイクロソフトの重役を務めるソフトウェアエンジニアで、ナショナル・アカデミー・オブ・エンジニアリングの会員にもなっている。スキーヤーにして、スカッシュプレーヤーでもあるという。独身であるが、3人の子ども(リサ、ティム、キース)がいる。
これほど詳しいデータは、ソフトウェアエンジニアとしてのディビッド・カトラーを調査するだけでは、見つけることができない。どうやらディビッド・カトラーは、1993年もしくは94年あたりにウィンドウズ NTの開発から外れているようである。一部で「プログラムのコーディングよりは、レースに夢中」と報道されていることは、どうやら本当らしい。
ディビッド・カトラーは、1999年から64ビット版ウィンドウズ 2000の開発指揮を執っているといわれている。そこで最近、どの程度レースに出場しているのかを調べてみると、1999年9月付のデータで、ロングビーチ、ナザレ、ゲートウェイ、ミルウォーキー、モントリオール、ロードアメリカ、バンクーバー、ラグナセカ、ヒューストンで走っている。開発作業を指揮している身にしては、少し走り過ぎだ。このような状態で、64ビット版ウィンドウズ 2000を本格的に開発するのは難しいだろう。
最後に、ディビッド・カトラーはほとんどすべてのインタビューを拒否しているが、1999年8月に、ナディーン・カノーのインタビューを受けている。その場にはマーク・ルコフスキーが同席していた。数少ないインタビューの記録であるにもかかわらず、インタビュアーが気後れしており、突っ込みが浅いのは残念だ。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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