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IT業界の開拓者たち

第12回 ウィンドウズ NT開発者からレーサーへ

脇英世
2009/2/19

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ディビッド・カトラー(David N.Cutler)――
マイクロソフト開発担当

 ウィンドウズ NTの主な開発者としては、ディビッド・カトラーが有名である。ウィンドウズ 2000の開発が難航していた時期、それほど難航するなら、ディビッド・カトラーのようなカリスマにもっと主導権を持たせて活躍してもらえばいいのではないか、という意見もあった。こうした人たちは、ディビッド・カトラーは一体どこへ行ってしまったのだろうか、と思うに違いない。そのことを少し考えてみよう。

 ディビッド・カトラーについては、G・パスカル・ザカリー著、山岡洋一訳の『闘うプログラマー』(日経BP出版センター)が詳しい。1942年3月3日、ミシガン州ランシング近郊に生まれている。その父ニール・カトラーは、生涯のほとんどをランシングにあったオールズモービルの自動車工場で働いて過ごしたという。最近のディビッド・カトラーに見られる尋常でない自動車への傾斜は、この辺にきっかけがあるのかもしれない。

 1960年6月に地元の高校を卒業して、1965年1月にはミシガン州のオリベット大学を卒業している。オリベット大学時代は、フットボールチームのクオーターバックであったという。身長175cm、体重80kgという体格はフットボール選手としてそう大きな方ではないが、素質に恵まれていた。ディビッド・カトラーが備えているどう猛なまでの戦闘性の一部は、フットボール選手時代に培われたのかもしれない。

 大学を卒業すると、デュポンに入社した。最初の仕事は、発泡の保温材の用途を考えることだった。それから転じて、ユニバック製のコンピュータを保守する仕事に回っている。さらに、同社製コンピュータの信頼性を高めるように指示され、OSに触れるようになっていった。しばらくして、DECのPDPシリーズにあるミニコン用のリアルタイムOSを開発している。

 1971年、デュポンに飽きたディビッド・カトラーはDECに入社する。当時29歳であった。DECでは最初PDP-11用のリアルタイムOSの開発に貢献して評価された。ただ、マナーの悪さ、倣岸不遜さでも有名であった。1975年4月からは、DECの新型ミニコンVAX用のOSであるVMSの開発を任された。当初1年間をかけて設計が行われ、バージョン4まで進んだが、あまりに複雑になってしまった。そこで設計の簡素化のために3人のハードウェア技術者と3人のソフトウェア技術者からなるブルーリボン委員会がつくられた。

 1975年6月、暗号名スターレットとしてVMSの本格的な開発計画が始まった。統括はロジャー・ゴードが行った。技術者のリーダーはディビッド・カトラー、ディック・バストベッド、ピーター・リップマンであった。ブルーリボン委員会のメンバーと同じである。

 開発はバージョン5まで進み、1976年春、VMSとして完成した。

 VMSはあらゆる用途に対応できるOSであった。多数のOSが乱立したPDP-11の反省であった。PDP-11用には次のように多くのOSがあった。

  • RT-11 リアルタイムと実験室用

  • RSTS-11 教育と小規模商用タイムシェアリング用

  • RSX-11 工業と製造制御用

  • MUMPS-11 医療システム用

  • DOS-11 PDP-11用OS

 1977年にはVAXが発売され、VMSは大成功を収めた。ディビッド・カトラーはVMSの設計者として有名になった。

 こうしてディビッド・カトラーは数々の功績を残したが、彼の過剰な戦闘性と好戦的な態度は社内にあつれきを生んだ。1981年ディビッド・カトラーはDECを辞めようとしたが、上司から、

「好きな人間を使って好きなことを好きなようにやってよろしい」

といわれた。ディビッド・カトラーは自分のチームを連れて西海岸のシアトルに移った。DECとしてはVMSの成功者がDECを去るなどという体裁の悪いことは耐えられなかった。要するにディビッド・カトラーは、体よく飼い殺しになったのである。

 1982年になるとディビッド・カトラーは、シアトルでマイクロVAX-Iシステムの設計に当たった。マイクロVAXシリーズはマイクロVAX-IIで成功を収めた。

 1986年には、ディビッド・カトラーは暗号名プリズムとして知られるRISC対応OSの開発に取り掛かったが、プリズム開発は中止され、開発部隊は解散になった。

 1988年、傷心のディビッド・カトラーがDEC内で干されていることに気付いたマイクロソフトは、その獲得に乗り出した。そして、同年の10月、入社させるのに成功する。こうして、ウィンドウズ NTの開発は始まったのである。ただ、ディビッド・カトラーは、マイクロソフトの主張するGUIに興味がなかったし、ネットワークにも無関心だった。また、ビル・ゲイツが重視するインテルのx86系チップ用に、ウィンドウズ NTを移植することにも興味がなかった。

 ともかく、1993年7月にウィンドウズ NT3.1はRTM(製造工程向けのリリース)となり、8月には出荷された。ディビッド・カトラーの名前が公に表へ出たのは、それが最後となっている。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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