第16回 DEC帝国を作り上げた男
脇英世
2009/2/25
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ケン・オルセン(Ken Olsen)――
DEC創業者
DEC(Digital Equipment Corporation)を創立したケン・オルセンは、1926年、コネティカット州 ブリッジポートのはずれで生まれ育った。ノルウェーからの移民が多い地域である。彼もノルウェー移民の子どもだった。最近のケン・オルセンの略歴ではその辺りをストラットフォードと表現している。ニューヨークの北東にある。たぶん実際にはストラットフォードとブリッジポートの中間だろう。ブリッジポートは美しい海辺の町である。ここでは機械工具が生産されていた。ケン・オルセンの父親は機械の設計者だった。
ケン・オルセンは少年時代、エレクトロニクスに興味を持っていた。エレクトロニクスについて学んだのは、『ポピュラー・メカニクス』とか『ポピュラー・サイエンス』とかいう雑誌からだった。この時代のエレクトロニクスというのは、無線と同義語だった。誰かがラジオを捨てれば、ケン・オルセンは部品をはがして実験に使った。とはいえ、手に入る部品は少なく、心ときめくような実験はできなかった。それでも、作っては壊しを繰り返していた。
ケン・オルセンの父親は、息子が無線関係に進むのに反対ではなかった。ただ当時、無線では食べていけなかったので、まず機械関係の仕事を覚えるようにとアドバイスした。そこでケン・オルセンは、高校から帰ると、午後は機械工作の現場で働いたのだった。
1944年、18歳の時、ケン・オルセンは海軍に志願入隊した。海軍でエレクトロニクスを勉強したかったのである。スミソニアン博物館向けのインタビューでケン・オルセンが語った長い話を要約すると以下のようになる。彼は、シカゴ、モンタレー、サンフランシスコ湾のトレジャー島で通信兵としての教育を受けた。中国で終戦を迎え、提督のスタッフとして旗艦の巡洋艦に乗り組み、通信業務に当たっていた。
しかし、この話には少し変なところがある。艦隊の名前もなければ、巡洋艦の名前も、提督の名前も出てこないのだ。戦時編制の艦隊の場合、旗艦が戦艦でなく巡洋艦というのも奇妙だ。それに、一般水兵が提督のスタッフになるということはあまり考えられない。
1946年、ケン・オルセンは召集解除となって帰国すると、GEのFMラジオ工場で働いた。当時、帰還兵を保護する制度があり、帰還兵は奨学金を与えられ大学に入ることを奨励されていた。ケン・オルセンはMITを志願し、入試を受けて合格した。1947年2月、帰還兵のための特別クラスに入学した。
2年間の教養課程を終え、専攻を決める段階になって、ケン・オルセンは電気工学科を専攻した。ところが、成績上位10%でなければ電気工学科には入れないことになっていた。ケン・オルセンは、成績は良くなかったが、ある教授の推薦で特別に電気工学科への入学を許された。熱意を買われたのである。
1950年、ケン・オルセンは大学院に進んだ。コンピュータを選んだのは偶然だったらしい。機械の数値制御に興味があったらしいが、補助としての職が得られず、MITのリンカーン研究所で行われていたフワールウインド(旋風)という軍事研究に職を得て参加した。フワールウインド計画は、北米の防空警戒ネットワークの構築に必要な研究だった。このあたりから、ケン・オルセンの才能が花開き始める。
最初の仕事は、CRTを駆動するためのD/Aコンバータを作るものだった。その次の仕事はコア・メモリのチェック用 MTC(メモリ・テスト・コンピュータ)の製作だった。
1954年には、MIT初のトランジスタ・コンピュータTX0の開発に従事し、1956年からTX2の開発にも参加した。MITのリンカーン研究所に7年勤めた。ケン・オルセンは研究所での仕事に行き詰まりを感じていた。自分のやりたいことが見えてきたのだろう。
1957年、ケン・オルセンとケン・オルセンの弟のスタン・オルセン、ハーラン・アンダーソンの3人はDECを設立した。DECの本社は、ボストン郊外のメイナードにある、古い煉瓦造りのビルに置かれた。ケン・オルセンにはむろん資金がなかったから、ベンチャー・ビジネスのARD(アメリカン・リサーチ・アンド・ザ・デベロップメント)に融資を求めた。ARDはジョージ・ドリオット将軍が社長をしていた。ドリオット将軍はフランス人で、MITからハーバードに進学し、ハーバードビジネススクールの教授になった人だ。第二次世界大戦で将軍になった。だから彼はドリオット将軍と呼ばれた。
ARDはDECに7万ドル融資した。ARDがケン・オルセンたちに与えたアドバイスは以下であった。
- コンピュータという言葉を使わない
- 5%の利益では十分ではない
- 成果を早く出す
ケン・オルセンはレキシントン図書館に行って、経営に関する本を全部読んだという。いかにも付け焼き刃の経営者であったわけである。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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