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IT業界の開拓者たち

第16回 DEC帝国を作り上げた男

脇英世
2009/2/25

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 経営には素人だったが、ケン・オルセンは手堅く、まずはMITで経験を積んだモジュール・ビジネスを手掛けて成功した。続いて1959年から、MITで成功したMTCを売り出した。これは合計50台売れた。

 こうした準備の後、いよいよ1960年、ケン・オルセンは18ビット・コンピュータPDP-1を売り出した。PDPは、プログラムド・データ・プロセッサの略である。PDP-1は新しいタイプのコンピュータであった。12万ドルと当時のコンピュータとしては極めて安く、簡素で高速だった。PDP-1は、MITの伝統を継承した対話型コンピュータであり、グラフィック・ディスプレイ、ライト・ペンを備えていた。当時はパンチ・カードを使ったバッチ処理の大型コンピュータ全盛時代であり、MITの影響を受けた対話型のミニ・コンピュータPDP-1は野心的存在だった。ケン・オルセンは、PDP-1をMITに寄付した。DECの企業文化はMITの影響を強く受けていた。MITのハッカー文化を共有していたといってよい。

 当時のケン・オルセンは柔軟であり、コンピュータは面白くなければならないと考えていた。自分たちが世界を変えるんだと思っていた。こういう考え方を持っていたころのDECは無敵であった。ケン・オルセンは、茶色とベージュをDECカラーに選んだ。ロゴは彼自身がデザインした。当時、社名を小文字で書くのは珍しいことだった。このロゴの成功によって、DECはDECと呼ばれずdigital(ディジタル)と呼ばれるようになっていた。ケン・オルセンはさらに、製品のデザインにも多大な注意を払った。PDP-1のモニタやコンソールは、統一した外観を持っていた。ドキュメントもよくできていた。

 PDP-1が発表されると、ITTやNASAから膨大な数の注文がきた。ケン・オルセンはこれを断ったといっている。会社があまりにも急激に大きくなると、あっという間につぶれてしまうと考えたからだと説明している。ただ別の資料ではITTの大量注文を受けたことになっている。

 国防総省へはDECのコンピュータは売らなかったともいっている。経理上の問題があり、国防総省関係には売らなかったというのだ。しかし実際には、国防総省はDECの大きな収入源であったはずである。この人の話は所々つじつまの合わないことがある。

 PDP-1に続く製品として、1962年のPDP-4、1963年のPDP-5、1964年のPDP-6、1965年のPDP-7がある。これらは、番号こそつながっているものの、シリーズ製品とはいえない。ヒット作は1965年のPDP-8であり、1970年のPDP-11である。

 1966年、DECは株式を公開した。超一流企業への道を歩み出したのである。DEC帝国の繁栄を確固としたのは1977年に発表した32ビット・コンピュータVAXである。VAXはDECを「ミニコン界のIBM」の地位に押し上げた。

 1980年代になって、DECはパソコンをどう扱うべきかを決定せざるを得なくなった。

 ケン・オルセンにとって、パソコンとはネットワークにつながれるべきもので、スタンドアロンのパソコンは問題外とした。パソコンは誰でも作れるのだから、DECが寄与できることは何もないと考えた。そこでケン・オルセンはパソコン分野への進出に反対した。

 1977年、ケン・オルセンは有名な失言をしている。

 「すべての個人が家庭にコンピュータを持つ理由などない」

 これはマイクロソフトのビル・ゲイツの主張と正反対である。

 1982年に出荷されたDECのパソコン「レインボー」(Rainbow)は惨めな失敗作だった。もともとケン・オルセン自身にやる気がないうえに、初期故障が多発したためだ。1985年、DECは再びVAXmateでパソコンに挑戦するが、これもネットワーク接続を前提としており、しかも高価すぎた。こうした失敗が「あつものに懲りてなますを吹かせた」。DECはしばらくパソコンから手を引くことになる。

 1992年10月、DECは20億ドルの赤字を出した。ケン・オルセンは解任され、3万人以上が解雇された。ケン・オルセンの後任はロバート・パルマーだった。追放されたケン・オルセンは1992年、アドバンスド・モジュラー・ソリューションの顧問になった。1997年には、アドバンスド・モジュラー・ソリューションの社長になった。

 そして1998年、DECはケン・オルセンが無視し続けたパソコンの雄コンパックに買収されてしまった。

 ケン・オルセンの生涯を子細に研究してみると、初期のDECの成功の原因はMITのハッカー文化を継承したことにあるが、実家の家業の影響もあって機械工作に秀でていたこと、マーケティングを強く意識したデザインや色使いに普通以上の配慮があったことが挙げられる。またケン・オルセンの経歴の意外さにも驚かされる。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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