第18回 アドビの創立者
脇英世
2009/2/27
1978年、ジョン・ワーノックはゼロックスのPARC(パロ・アルト・リサーチ・センター)に移った。チャールズ・ゲシキに引き抜かれたという。
1939年、チャールズ・ゲシキはオハイオ州クリーブランドに生まれ育った。父は印刷屋であった。不幸にして教育は早い段階で終わってしまったが、誠実で信仰心の厚い人であった。常に教育の重要性を子どもたちに説いた。
チャールズ・ゲシキは父の期待に応えて、ザビア大学で古典の学士号、数学の修士号を取得した。その後は数学を教えていたらしいが、ケースウェスタンリザーブ大学の博士課程で数学の博士号を取得しようともしていた。しかしある日、チャールズ・ゲシキは数学の博士号を取ることに疑問を感じてしまった。そこで、奥さんにコンピュータへの転向を相談した。彼女は快諾した。チャールズ・ゲシキはカーネギーメロン大学に入って、コンピュータ科学の博士号を取得した。その後、ゼロックスのPARCに入った。
ゼロックスのPARCで、ジョン・ワーノックはマーティン・ニューウェルと協力して、ジョン・ガフニーの「デザインシステム言語」に磨きをかけ、JaM言語を作った。JaMは2人の名前をつなげたジョン・アンド・マーティンの略である。JaMの用途は、VLSIの設計とタイプとグラフィックス印刷であった。特に印刷分野に向けたものがゼロックスの印刷プロトコルであるインタープレス(InterPress)へと成長していった。
1982年、ジョン・ワーノックはチャールズ・ゲシキとゼロックスのPARCを飛び出してアドビ社を作った。アドビという名前はジョン・ワーノックが住んでいたシリコンバレーのロスアルトスの自宅のそばを流れる小川の名前から取った。アドビとはインディアン語らしい。
ゼロックスのPARCを勢いよく飛び出したものの、ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキのアドビの事業計画はあいまいであった。彼らはレーザープリンタに関連した仕事をしたいと漠然と考えていた。当初、アドビは印刷と出版の簡易印刷サービスを始めようとしていた。ボーイングやロッキードのための技術文書の印刷を請け負うものであった。ところがこの計画は、サンフランシスコの投資銀行に勤めるビル・ハンブレヒトに止められた。ビジネスを知らないというわけである。そこでアドビはDTP(デスクトップパブリッシング)に絞った事業計画書を書いた。
そうこうするうち、アドビは「デザインシステム言語」を改良したJaM言語を再設計してポストスクリプト言語に仕上げた。
まず、たまたま会ったDECのゴードン・ベルからレーザープリンタの制御プログラムを、売るかライセンスしないかとの誘いがあった。ゴードン・ベルは、1966年から1972年までカーネギーメロンの教授であった。チャールズ・ゲシキは、そのころ博士課程の学生であり、互いに知っていたのである。しかし、アドビはゴードン・ベルの誘いには乗らなかった。
1983年、アップルのスティーブ・ジョブズが、マッキントッシュ用のレーザープリンタであるアップルレーザーライターを動かすプロジェクトへの参加を提案してきた。アドビはこの提案に乗った。アップルは気前がよく、100万ドルの前払い金に加えて250万ドルを現金でアドビに支払った。
1985年、アドビのポストスクリプトを搭載したアップルレーザーライターが登場すると、DTPブームが起き、アドビの売り上げは倍増した。アドビは巧妙な戦術を使い、ポストスクリプトを本格的な印刷メーカーのアライドライノタイプ、データプロダクト、QMSなどにライセンスした。またワープロソフトのワードやシーニックライタ、GEMWriteなどもポストスクリプトをサポートした。こうしてアドビは無敵の快進撃を開始する。この快進撃は、1989年のマイクロソフトとアップルの連合軍によるアドビヘの反乱まで続いた。アップルはアドビのディスプレイポストスクリプトをクイックドロー(QuickDraw)に変えようとした。マイクロソフトはウィンドウズを正面に立てた。この反乱の一因は、アドビのライセンス料が高すぎたためだったともいわれる。アップルは1990年に反乱を終結し、アドビと和睦した。マイクロソフトとアドビの和睦はかなり後になる。
ジョン・ワーノックは絵を描くのが好きだ。アドビのホームページに彼の描いた絵がある。お世辞にもうまいとはいえないのが愛敬だ。ハンガリー料理が得意で、ナンタケットにサマーハウスと釣り舟を持っている。車いじりも好きだという。
チャールズ・ゲシキとは大変仲が良い。2人ともひげ男で給料もほとんど同じだという。ジョン・ワーノックが技術系でチャールズ・ゲシキが事務系という世評である。2000年3月、チャールズ・ゲシキはアドビを退職した。ジョン・ワーノックも2001年3月、60歳でアドビを退職した。功なり名をとげた退職だった。ただし名誉職としての会長職にはとどまるらしい。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
» @IT自分戦略研究所 トップページへ |
@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。
現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。
これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。