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IT業界の開拓者たち

第18回 アドビの創立者

脇英世
2009/2/27

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ジョン・ワーノック(John Warnock)
チャールズ・ゲシキ(Charles Geschke)――
アドビシステムズ創業者

 昔はポストスクリプト(PostScript)といえば誰でも知っていたものだが、いまはどうだろう。むしろアクロバット(Acrobat)の方が知名度が高いのではないだろうか。ポストスクリプトもアクロバットもアドビ(Adobe)の製品である。このアドビの創立者がジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキである。共に誠実な業界の紳士という評判の一方、高額なロイヤルティーを要求する、したたかなビジネスマンという評判もある。

 ジョン・ワーノックは、1940年にユタ州のソルトレークシティに生まれた。はっきりした生年は公表事例がないので年齢から逆算するしかない。パソコン業界で活躍する人物としては最も年齢が高い部類だ。

 ジョン・ワーノックの前半生は、数学と縁が深い。少年時代には、代数の科目で落第したことがある。神童でも天才でもなく、むしろ落ちこぼれである。

 高校2年生のときに適性検査を受けると、カウンセラーに「君は大学には行くべきではないよ」といわれる。勉強には向いていないというのだ。そして、仮に大学に進学したとしてどうするつもりかと聞かれる。

「それで大学で何をやりたいのかね?」

「工学みたいなことです」

「工学のどんな分野でも君が成功する確率はまずゼロだね」

 しかしジョン・ワーノックは、高校で素晴らしい数学の先生に出会った。その先生は生徒の数学への恐れを取り除き、数学を本当に面白いものと感じさせた。本当に情熱を持った教育者だったのだろう。その先生のおかげで、ジョン・ワーノックは、数学でオールAを取った。多少の誇張はあるのだろうが、その先生の教え子のほとんどは大学に進学すると博士号や修士号を取ったという。

 ジョン・ワーノックはユタ大学へ進学した。ここでまた意外なことが起きる。ジョン・ワーノックは、ユタ大学の数理哲学科で一生懸命勉強したけれども、成績はあまり良くなかったらしい。1963年からIBMで働き始めた。ユタ大学 大学院の数学科には、ぎりぎりの成績で進学したらしい。

 そんなジョン・ワーノックだが、数学の分野で未解決となっていたある問題を解決してしまったのであった。同学でオープンプロブレムとなっていた未解決の難題を解いてしまったというのだ。ユタ大学のコンピュータ科学科の歴史を見ると、「隠面除去に関するワーナックの再帰的分割アルゴリズム」であることが分かる。ジョン・ワーノック自身の語るところによれば、この業績によりユタ大学で修士号と博士号を最短の時間で取得したことになっている。

 修士課程は数学専攻で、博士課程は電気工学専攻コンピュータ科学専修であった。彼の語りをそのまま受け取ると、学部から大学院にそのまま行き、将来を嘱望された研究者になったように聞こえる。

 だがユタ大学の資料によれば、ジョン・ワーノックがユタ大学の大学院にいたのは、1968年から1975年まで(28歳から35歳)であり、Ph.Dの取得は1969年で29歳のときである。学部は普通22歳で卒業する。だから数年間の空白がある。そこがよく分からないところだ。

 ジョン・ワーノックは、1965年に数学の先生となり、結婚したが、奥さんを養えなかったという。どういう意味だろうか? 分かったようで、分からないようなところがある。通常は、美人で浪費家の奥さんをもらったという意味にとれる。

 ジョン・ワーノックがサンノゼマーキュリーニュースのインタビューで語ったところによれば、ジョン・ワーノックは、ユタ州から、カナダのバンクーバーに向かい、トロントへ移り、さらにワシントン特別区に行った。ワシントン特別区ではゴダード宇宙飛行センターで働き、さらにカリフォルニアに行ってAmes研究所に移った。ここでは、スペースフライトシミュレータの研究に従事したらしい。また、1972年にメリーランドからカリフォルニアに移住したことは分かっている。ワシントン特別区で働いていた時期は、メリーランドに住んでいたのだろう。ほかにも、IBMやコンピュータサイエンス社にいたことがある。

 さて1976年、ジョン・ワーノックはユタ大学から、1968年に創立されたE&S(エバンス・アンド・サザーランド・コンピュータ)社に移った。ここでは、航空機のシミュレータを担当していたらしい。1966年、デイブ・エバンスがUCバークレーからユタ大学にやってきて、コンピュータ科学科を創設し、主任になって、ARPA(国防先進研究計画局)から資金援助を受けた。デイブ・エバンスは、イワン・サザーランドなど優秀な教授をスカウトした。ユタ大学のコンピュータ科学科には、ジョン・ワーノック、ジム・クラーク、アラン・ケイ、マーティン・ニューウェル、エド・カトマル、ジム・ブリンなどの逸材が集まった。この俊秀たちが、後年、ユタコネクションを形成することになる。

 当時E&Sでは、ジョン・ガフニーが、ニューヨーク港の3次元グラフィックスデータベース用の「デザインシステム言語」と呼ばれたインタープリタを開発していた。この「デザインシステム言語」はFORTH型の言語であった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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