第21回 オンラインサービスAOLの帝王
脇英世
2009/3/4
1987年、スティーブ・ケースはアップルと契約を結び、アップルリンクという会社を作った。続いてタンディ、IBMとも契約した。矢継ぎ早の拡大のために500万ドルの資金が必要になり、資金繰りが苦しくなった。取締役会からはスティーブ・ケースをクビにしろという声が上がった。ジム・キムゼイがかばってくれたため、スティーブ・ケースは命拾いした。
クォンタム・コンピュータサービスは、系列の子会社を多数抱えることになったが、これらの会社の集合体が、非公式にアメリカ・オンラインと呼ばれるようになった。
1991年、クォンタム・コンピュータサービスは、子会社を整理統合して、AOL(アメリカ・オンライン)と名称変更した。当時、会員は15万人であった。スティーブ・ケースはAOLの社長になった。1992年、AOLは上場し、スティーブ・ケースはCEOとなった。CEOとなったケースは、極めて攻撃的な拡大戦略を採用した。会員数250万人を誇るプロデジーに対して、料金の切り下げで果敢に挑戦し、コンピュサーブやプロデジーが無関心なうちに、素早くインターネットに進出した。また、AOLは消費者指向を強め、サービスを簡単にして誰にでも使いやすいものにした。
これだけ戦略が優れていれば、AOLが急成長するのも当然である。AOLの会員数は、1994年に100万人、1995年に250万人、1996年には600万人と、急激に膨張した。急成長に伴い、設備が対応できず、サービスと接続性が追い付かなくなった。1996年12月より料金をフラットレート化したため、アクセス頻度は一層高まった。この結果、AOLはいつもつながらないし、メールはしばしばなくなると不評であった。
組織面でも問題が起きた。AOLの社員は1993年に200人、1995年に2000人、1997年に8000人と急激に増加した。人事管理が問題となり、1996年2月、ウィリアム・ラズークをフェデラル・エクスプレスからCOOとして引き抜いて解決しようとしたが、ラズークは3月ともたず、AOLを辞めてしまった。
スティーブ・ケースの毎日は仕事漬けで、11年連れ添った妻ともうまくいかなくなり、美人の女性副社長と親密な関係にあることを告白した。家庭生活も犠牲になったのである。
しかし、スティーブ・ケースはこれらの問題を何とか乗り切っていく。
1995年、AOLの前に巨人マイクロソフトが立ちはだかった。マイクロソフトは、ウィンドウズ 95を機にMSNを立ち上げ、オンラインサービス業界を席捲しようとした。しかし、当時の巨人マイクロソフトを内部から侵食しはじめた官僚主義は、MSNを硬直化させ、信じられないことに悲惨な自滅へと導いていった。
1996年、変わり身の早いビル・ゲイツは、自社のMSNを犠牲にする代わりに、ネットスケープナビゲータを捨て、マイクロソフトエクスプローラを採用するようにAOLに迫った。マイクロソフトは、オンラインサービス市場よりブラウザ市場の支配を選択した。AOLがマイクロソフトエクスプローラを選択したことにより、ある意味でネットスケープの命運は尽きた。
1997年9月、AOLはANSコミュニケーションと交換に、ワールドコムからコンピュサーブのオンラインサービスを買い取ると発表した。これにより、コンピュサーブの会員60万人がAOLの900万人の会員に加わり、1000万人を超える会員数を誇る巨大オンラインサービス企業となった。
さらに1998年11月、AOLはネットスケープを42億ドルで買収した。2000年1月にはタイム・ワーナーの買収を完了した。
AOLはこれ以上巨大になれないほど巨大になった。しかし、成功の秘密は非常に簡単で、「役に立ち、手頃な料金で、簡単にアクセスでき、面白い」という初期の方針を守り抜いたことにある。しかし、巨大化につれて、焦点のぼけた観も出てきたことは否めない。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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