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IT業界の開拓者たち

第21回 オンラインサービスAOLの帝王

脇英世
2009/3/4

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

スティーブ・ケース(Stephen M.Case)――
アメリカ・オンライン(AOL)会長

 スティーブ・ケースという名前を聞いても、おそらくどんな人か分かるまい。スティーブ・ケースはAOL(アメリカ・オンライン)の創始者で会長と聞かされても、「ああ、そうなんだ」で終わってしまうだろう。それ以上に何か付け加えられたら、相当のパソコン通である。だいたいAOLといわれても、案外「何だ、それ?」という人が多いのではないだろうか。 AOLは、昔はパソコン通信の大手であったが、インターネットの荒波もうまく乗り越え、いまはインタラクティブ・サービスの最大手となっている。買収戦略も活発で、1999年にネットスケープを買収し、2000年にはタイム・ワーナーを買収した。現在会員数3000万人の偉容を誇っている。AOLはいつの間にか巨大になった。AOLは、巨大さと無名さが同居する奇妙な会社である。

 スティーブ・ケースは、1958年にハワイのホノルルに生まれた。父親は弁護士で、母親は教師であった。スティーブは4人兄弟の3番目で、次男のダンと仲が良かった。スティーブが6歳のとき、ダンと一緒に裏庭から取ってきたレモンを絞ってレモネードにして1杯2セントで売った。しかし多くの人は5セント硬貨で払って、お釣りをもらわなかったので、2人は1杯につき、3セントもうけた。

 数年後、2人はケース・エンタープライズを設立した。これは「国際的なメールオーダー会社」であった。メールオーダーや訪問販売で、植物の種からグリーティングカードまで何でも売った。ケース・エンタープライズはスイス製の時計のハワイにおける流通代理店になったが、時計は1個も売れなかった。「大人が12歳と11歳の子どもから時計を買わない理由が分からなかった」という。何とも微笑ましい。

 その後、アロハ・セールス・エージェンシーという広告会社も作ったらしい。

 高校生になると、スティーブ・ケースは高校新聞にレコードアルバムの批評を書いた。レコード会社に、自分はハワイのティーンエイジャーが読んでいる有名な高校新聞に寄稿していると手紙を出した。レコード会社がスティーブ・ケースの名前をメーリングリストに加えた結果、無料のレコードアルバムとコンサートチケットが大量に舞い込むことになった。

 スティーブ・ケースが自分で語るところによれば、野球やサーフィンが好きで、これといった特徴のない、シャイな高校生であったという。

 スティーブ・ケースはウィリアムズ・カレッジに進むと政治科学を専攻した。マーケティングに最も近かったからというのが専攻の理由である。勉強ができる方ではなかったようだ。オールキャンパス・エンタテインメント委員会に所属し、バンドのメインボーカルを担当していた。どこがシャイなのだろうと思う。

 スティーブ・ケースはウィリアムズ・カレッジを卒業すると、プロクター&ギャンブルに入社して、パーマのキットとヘアコンディショナーを売った。要するに整髪製品を販売していた。

 その後、ペプシコーラ傘下のピザハットに入社した。スティーブ・ケースは新しいピザの開発を任され、新しいトッピングのアイデアを求めて、都市から都市へと渡り歩き、ひたすらピザを食べた。スティーブ・ケースはピザの新製品をいろいろ開発した。

1982年、ウィチタにいたころ、スティーブ・ケースはケイプロのパソコンを買った。アルビン・トフラーの「第三の波」に影響を受けてモデムを買い、100ドル支払ってオンラインサービスのソースに加入した。モデムは素晴らしい世界をスティーブ・ケースの前に切り開いた。これが彼の一生の仕事になるのである。

 兄のダンは、スティーブよりは勉強ができたようで、プリンストン大学を卒業した。卒業後はハンブレヒト&クイスト投資銀行に入社した。その後、バージニア州ビエンナにあったコントロール・ビデオ社の取締役会に参加した。コントロール・ビデオ社は電話線経由で、家庭にあるアタリ製のパソコンにビデオゲームを配給する会社であった。

1983年、スティーブは、兄のダンの手引きでコントロール・ビデオ社のマーケティングアシスタントになったものの、2週間後に会社の資金が尽きた。もともとコントロール・ビデオ社は、アタリのパソコンが作り出したゲームブームを当て込んでいたのだが、1983年にゲーム市場が大崩壊したのである。

 コントロール・ビデオ社の取締役会は経営陣を解雇し、ジム・キムゼイをCEOに据えた。ジム・キムゼイはウエストポイント陸軍士官学校卒で、ベトナム戦争にも従軍している。除隊しても恵まれず、貯金の2000ドルをはたいて4回レストラン経営を試みたが、すべて失敗していた。このような前歴の人物がCEOになったのだから、コントロール・ビデオ社という会社がどんな会社であったのかは明らかである。ダンは間もなく取締役会を離れたが、スティーブは社に留まった。

 1985年5月24日、コントロール・ビデオ社はクォンタム・コンピュータサービスとして再生した。スティーブ・ケースは、共同設立者に名を連ね大活躍する。

 当時のオンラインサービスの主流はコンピュサーブやダウジョーンズであった。クォンタム・コンピュータサービスもオンラインサービスに参入したかったが、倒産すれすれの会社で資金がなかった。そこでクォンタム・コンピュータサービスはコモドールと提携し、コモドール64のためのオンラインサービスを提供した。クォンタム・コンピュータサービスはこのためにクォンタムリンクを作った。「役に立ち、手頃な料金で、簡単にアクセスでき、面白い」がキャッチフレーズであった。これは、以後もスティーブ・ケースの基本的な戦略となる。1987年までには、クォンタムリンクの会員数は公称5万人程度になった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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