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IT業界の開拓者たち

第24回 パームパイロットの生みの親

脇英世
2009/3/9

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 パーム・コンピューティングはソフト会社として出発し、ズーマーのアプリケーションを提供し、また手書き認識部のパームプリントを提供した。ズーマーの敗退により、パーム・コンピューティングはアプリケーションを動かすプラットフォームのPDAを失った。そこでジェフ・ホーキンスは、自らハードを作ることを決定した。当時、パーム・コンピューティングには28人の社員がいたが、ハードの経験があるのはジェフ・ホーキンスだけだった。まず、シャツのポケットに入れることのできる大きさと厚みを測ったジェフ・ホーキンスは、幅3.1インチ、高さ4.6インチ、厚み0.6インチという数字を割り出した。また、ズーマーの失敗にかんがみ、299ドル以下で売れることを重視した。

 1994年秋には仕様は完成し、モックアップも完成した。ハード、ソフトとも、実際の設計は外部のデザイン会社に発注した。結局、この安直さが良かった。しかし、それが分かるのはずっと後になってのことである。パームパイロットは、MC68328/16MHzを搭載していた。

 パームパイロットにおける手書き認識の特徴として挙げられるものに、すべての手書き文字を認識させることはあきらめたということがある。認識できるような文字を、ユーザーに練習して書かせるよう負担を強いて、認識率を上げたのだった。

 出来上がったマシンであるパームパイロットを実際に生産するためには、資金が必要である。パーム・コンピューティングのCEOであるドナ・デュビンスキーは500万ドルを集めようとしたが、ズーマーの失敗もあって、どこもなかなかお金を出そうとしなかった。18カ月の苦闘の後、ドナ・デュビンスキーはついに成功する。1995年9月、U・S・ロボティックス(U.S.Robotics)がパーム・コンピューティングを、なんと4500万ドルで買収してくれたのである。1996年4月、U・S・ロボティックスの子会社とパーム・コンピューティングはパイロット1000、および同5000を発売した。

 1996年9月、ウィンドウズCE 1.0が発表された。ウィンドウズCEの最初の適用分野は、1996年当時、ハンドヘルドPCであった。歴史的にウィンドウズCEは、もともとVOD(ビデオ・オン・デマンド)のSTB(セット・トップ・ボックス)向けのOSとして誕生してきただけにこれは意外であった。

 マイクロソフトを盟主とするウィンドウズCE軍団と、モデムメーカーであるU・S・ロボティックスの子会社パーム・コンピューティングでは圧倒的に規模が違う。パーム・コンピューティングは勝てないと誰もが思った。ところが、パーム・コンピューティングのパームパイロットは、1996年末までに35万台が売れた。パーム・コンピューティングはその後も順調に実績を伸ばし、実に発売以来18カ月で100万台を売ってしまい、なんと66%のシェアを取ってしまった。最初は口コミで、さらにはムードに乗って、パームパイロットは恐るべき勢いで売れたのである。一方、ウィンドウズCE軍団の実績は全体で50万台と低調であった。

 1997年6月、3ComはU・S・ロボティックスを買収した。ここでパーム・コンピューティングを売り払うべきかどうか多少の迷いがあったようだが、3Comはパーム・コンピューティングを手放さなかった。

 1997年9月、マイクロソフトはウィンドウズCE 1.0の失敗を反省し、ウィンドウズCE 2.0を発表した。

 1998年1月、3Comの子会社パーム・コンピューティングは、欧州でマイクロソフトを訴えた。マイクロソフトは3Comのパームパイロットに対抗するウィンドウズCE製品をパームPCと名付けようとしているが、これは3Comのパームパイロットと極めて紛らわしく、3Comの商標権侵害に当たると訴えた。パーム・コンピューティングはドイツで勝訴し、この判例が米国内に及ぶ可能性があったため、マイクロソフトはパームPCという名称を引っ込め、パームサイズPCという名称にした。しかしこれと同時期、皮肉なことに、3Comのパームパイロット自身が、別の会社の商標権を侵害していると提訴された。これにより、新製品から、パイロットの文字が取り除かれることになる。1998年4月、ウィンドウズCE 2.1が発表された。

 いろいろあってもパームパイロットは圧倒的に優勢で、IBMも3ComからパームパイロットをOEMしてIBMワークパッドとして発売するようになった。さらに1998年3月、3ComはパームIIIを発表した。1998年3月、パームパイロットは累計160万台、80%のシェアを記録した。1998年末までには、220万台売れるだろうといわれている。そして1998年12月、無線機能を装備したパームVIIが発表された。

 1998年8月、ジェフ・ホーキンスとドナ・デュビンスキーは3Comを辞めて、JDテクノロジーを設立した。JはジェフでDはドナから取ったのだろう。こぢんまりした環境で仕事をしたいというのが彼等の動機であると説明されている。

 1998年11月、JDテクノロジーはハンドスプリング(Handspring)と名前を変えた。ジェフ・ホーキンスは会長兼CPO(最高製品責任者)、ドナ・デュビンスキーは社長兼CEO(最高経営責任者)である。ハンドスプリングは、3ComからPalmOSライセンスを取得することが確定しており、コンシューマ市場よりのハンドヘルド・コンピュータに開発努力を傾注するとしている。少し無謀な独立であったような気がする。そして実際、無謀であったことが次第に明確になってきている。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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