第26回 パイレストランで誕生したコンピュータ
脇英世
2009/3/13
IBMは1984年に発売したIBM PC/AT用の80286を重視していた。IBMが80286を正式に見切るのは、1992年のOS/2 2.0からである。8年間の長きにわたって、IBMは80286に執着する。この間、コンパックは、80286の高速版として80386を使用することができた。
1987年のIBM PS/2のマイクロチャネル採用もコンパックをつぶせなかった。IBM自体がまだIBM PC/ATとISAバスを捨て切れなかったためである。むしろIBMはコンパックによるEISAバスの逆襲を受けて、マイクロチャネルの機能強化を発表せざるを得なくなる。さらにコンパックはサーバにまで分野を広げ、高価で高級なサーバであるシステムプロに代表される製品を次々に作り出した。
コンパックの売り上げは1983年の1億1100万ドル、1984年の3億2900万ドル、1985年の5億400万ドル、1986年の6億2500万ドルを経て、1987年には12億2400万ドルと10億ドルを突破した。破竹の勢いである。
その後も1988年には20億6600万ドル、1989年には28億7600万ドル、1990年には35億9900万ドルと一直線に進んだが、1991年には32億7100万ドルとダウンする。赤字が出て初めての首切りも行われた。理由は簡単である。コンパックのパソコンは高くなり過ぎた。優秀だが、高価過ぎて一般の人には手が届かなくなった。一方、パソコンの低価格化は進み、凝ったアーキテクチャを望まなければ、極めて安く買えるようになった。つまり普通の人は誰も買わなくなったのだから、売り上げが落ちるのは当然である。しかし、ロッド・キャニオンはあくまで高品質、高価格のプロ向けパソコンを開発していくつもりだった。
ここでベン・ローゼンが再び表に登場してくる。ロッド・キャニオンは成功のあまり、コンパックの本当のオーナーの存在を忘れていたようだ。ロッド・キャニオンは役員会でMIPSのRISCチップの採用と、ACEアーキテクチャに準拠した高品質・高価格路線の継承を訴えた。この提案はあっさり否決された。劣勢となったロッド・キャニオンはいろいろ妥協案を出すが、ベン・ローゼンを中心とする役員会はそうした提案を一切認めなかった。そしてついに刀折れ矢尽きたロッド・キャニオンは、辞任に追い込まれた。1991年10月25日のことであった。
ロッド・キャニオンの代わりにベン・ローゼンが社長に据えたのが、マーケット畑のエッカード・ファイファーである。ファイファーは低価格路線を推進し、コンパックの軌道修正に成功する。技術畑のロッド・キャニオンから、マーケット畑のエッカード・ファイファーに交代したことによって、技術のコンパックがマーケティングのコンパックへと華麗な転身を遂げることになる。
追放されたロッド・キャニオンはジム・ハリスとともに1992年インソース・テクノロジー・コーポレーションを設立した。会社そのものはまだ存続しているようだ。
エッカード・ファイファーの講演を何度か聞いたことがある。一本調子で淡々とやられるから毎回眠くなる。外国人の記者団もいつも寝ていたから、英語のせいだけでもないらしい。しかし、大変自信に満ちた人である。日本語版ウィンドウズの発表会のとき、自分に最初にスピーチをさせろといってきかなかった。勇ましいとは思ったが、ビル・ゲイツとフィリップ・カーンを差し置いて、それは無理だろうと思った。
ファイファーの講演の終わった後、ビル・ゲイツが怒っていると聞いた。どうしてと聞くと、「ウィンドウズの発表会なのに、おめでとうの一言もいわない。自社の製品の話ばかりしている。礼儀に反する」とビル・ゲイツがいったという。なるほど米国にも仁義というのはあるのだと思った。
それに比べると、ベン・ローゼンは極めてしたたかだ。話はいつも面白い。右に左にサービスを忘れない。それでいて主張すべきことはきちんと主張している。いかにも苦労人という感じで、細心の気配りを感じさせる。人間には器量の大きさというものがあるのだ、と感じさせられたことを覚えている。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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