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IT業界の開拓者たち

第26回 パイレストランで誕生したコンピュータ

脇英世
2009/3/13

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ロッド・キャニオン(Rod Canion)――
元コンパック社長兼CEO

 コンパックという会社は、1982年2月16日にゲートウェイ・テクノロジーという名前で、ジョセフ・ロッド・キャニオン、ジム・ハリス、ビル・マートという3人の若い技術者によって設立された。1981年秋にテキサス・インスツルメンツ(TI)を飛び出した、たった3人の元気のいい若者たちによってつくられた会社である。3人は新会社に対しておのおの1000ドルずつを出資した。むろんそんなわずかな金額で会社ができるわけがなく、ベンチャーキャピタルのセビジーローゼン・パートナーズのベン・ローゼンが支援していた。

 伝説では、ヒューストンのパイレストランでロッド・キャニオンの語る製品コンセプトを基に工業デザイナーのテッド・パパジョンがテーブルマットを裏返して、携帯型パソコンのプロトタイプをスケッチした。この製品のコンセプトがベンチャーキャピタリストのベン・ローゼンに提示され、これがコンパックの最初の製品である携帯型パソコンになったということになっている。いまや伝説や逸話というより、コンパックのWebサイトにも書いてある正式な歴史である。

 この話を読むと、コンパックの設立は極めて簡単にスムーズに進行したかのような印象を受ける。しかしロッド・キャニオンたちの最初の提案はIBM PC用のメモリカードや、ウィンチェスター型のハードディスクであったらしい。ベン・ローゼンはそういう平凡な提案には簡単にお金を出そうとせず、「もっと独創的な提案を」と何度も要求したらしい。そうして次第にIBM PC互換のポータブル・コンピュータというアイデアに誘導していったという。ロッド・キャニオンがこのアイデアに到達したのは1982年1月9日であるという。

 1981年、ベン・ローゼンはアダム・オズボーンのポータブル・コンピュータに魅せられ、当初10万ドル、翌年30万ドルを投資し、1983年オズボーン・コンピュータの倒産で投資額のすべてを失った。ロッド・キャニオンにポータブル・コンピュータを作らせたのは、ポータブル・コンピュータでの復しゅう戦の意味合いもあったものと考えられる。

 当時のIBMは“無敵艦隊”だった。それまでIBMとまともに戦って勝ったコンピュータ会社はない。著作権の問題もまったく未知数であり、IBMと対決するとなれば、天文学的な資金が必要で、数百人で構成される最精鋭のIBMの弁護士軍団と長期戦を戦う覚悟を固めなければならない。法廷闘争は途方もない時間とお金がかかる。それでもやろうというのは、とても常識では考えられない。ベン・ローゼンは、コンパックをはじめとして数十の会社に投資しているが必ずしも役員になっているわけではない。しかし、ベン・ローゼンは最高経営責任者(CEO)にはならなかったものの、コンパックの会長となった。初期投資の150万ドルを出すだけで、とどまっていられなかったらしい。

 ゲートウェイ・テクノロジーは、1982年10月にコンパック・コーポレーションと名前を変え、1983年1月にIBMのパソコン互換のポータブル・コンピュータを出した。最初の出荷は200台であったという。互換性の問題は、ロッド・キャニオンが著作権に触れないIBM互換BIOSを設計することで解決した。コンパックの方が勝手にそう思っていただけかもしれない。IBMが訴えてこなかっただけだ。当時IBMはまだ、独占禁止法違反訴訟が最後の段階で動きにくいところにいた。

 ロッド・キャニオンはIBMの互換機を作りながら、IBMのパソコンよりも品質の高い機械「ポータブル1」を出すという変わった戦術を採用した。「ポータブル1」の本体は頑丈そのもので、床に落としても容易には壊れない設計になっていた。当時のポータブル・コンピュータというのは、持ってやっと移動できる程度の重さだった。重量挙げの練習用と皮肉をいわれたほどの代物だったが、机の上の場所を取らないコンピュータとして使われていた。

 IBMの互換機を作ったということで、当然コンパックはIBMから集中砲火を浴びた。しかし、コンパックは一向に屈服しなかった。IBMの戦術は拙劣で、コンパックつぶしとして、コンパックの「ポータブル1」を真似たポータブル・コンピュータを作って対抗した。ジョークにしては危険なジョークだった。IBMは、コンパックの「ポータブル1」とほとんど同じ大きさ、ほとんど同じ仕様でポータブル・コンピュータを作ったのだ。結果は、後からまねしたIBMの完敗だった。このため無敵のIBM神話が揺らぐことになり、高品質のコンパックという定評ができる。コンパック製品は高価だがIBMより品質、性能ともに優れた製品として認知された。

 コンパックは1984年、デスクプロというマシンを出して、ポータブル・コンピュータからデスクトップコンピュータへと進出した。これは相当の冒険だったが成功した。

 1986年には、IBMより先にインテルの80386を搭載したデスクプロ386を出した。この裏にはマイクロソフトの側面からの援助もあった。マイクロソフトはウィンドウズおよび80386が走るマシンが必要であった。当時パソコンのアーキテクチャはIBMが定義し、ほかのメーカーはその後追いをするだけであったが、コンパックはこの筋書きをひっくり返してしまった。コンパックがパソコンを定義したのである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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