第32回 ペンコンピュータに賭けた男
脇英世
2009/3/24
1990年3月、保険会社のステート・ファームは自動車の保険金算定のプロジェクトのために、ゴーのペンコンピュータを選択する。ただしステート・ファームは付帯条件として、IBMかヒューレット・パッカードのいずれか1社と協力することを要求する。ゴーはIBMを選択した。
IBMはアル・ジョンソンを中心とするチームを結成して、ゴーと交渉することになった。単にステート・ファームでの件だけでなく、ペンコンピュータ分野での全面的な協力に話が進むことになる。当時、IBMはマイクロソフトとの確執に悩まされていたこともあって、必要以上に官僚的で警戒的な雰囲気の中で提携交渉が進められた。結局、IBMはゴーのペンポイントOSのライセンス取得に合意し、1990年7月、ゴーとIBMの提携が発表される。
IBMは対マイクロソフト戦略もあったが、基本的にはゴーの技術をOS/2に取り入れ、改良型ラップトップに取り込もうとしていた。キーボードを付けるが、オプションのペンを使いたいときは、それを取り外せるラップトップを考えていた。ゴーはまた、インテルからも資金を引き出すことに成功する。
アップルは当時ニュートンを開発していたが、この開発はラリー・テスラーに委ねられた。それまでペンコンピュータの計画はスティーブ・サコマンが担当していた。AT&Tは、スティーブ・サコマンと協力してホビットというRISCチップを開発していたが、ラリー・テスラーはホビットを捨て、ARMへ切り替えた。さらにOSもアップル製を捨て、ゴーのペンポイント採用に傾いた。このためアップル社内の猛反発をくらうことになり、結局OSはアップル製となった。
1991年1月、ゴーにとってマイクロソフトの脅威は大きく、同盟軍のIBMは信頼できず、投資家は不安を感じて資金は尽きようとしていた。これを打開するためペンポイントの開発者向けバージョンが発表された。このころ、連邦取引委員会によるマイクロソフトの独占禁止法違反容疑の調査が進行しており、ジェリー・カプランも連邦取引委員会の調査に協力する。しかし、連邦取引委員会はマイクロソフトを独占禁止法違反で訴追することはなかった。
1991年6月、NCR3125の発表があった。NCR3125は、80386を搭載し、640×480ドットの表示、ハードディスク、外部機器へのスロットを持っていた。また、ペンポイントとペンウィンドウズを搭載した。しかし重量は過多で、CPU性能は十分でなかった。
さて、このころインテル系のCPUを基盤としてマイクロソフトと対決することの不利さに、ゴーは気付く。インテル系CPUからの脱却の道が模索される。ちょうどアップルがAT&Tのホビットチップを見切ったためにここに空白があり、ゴーは資金提供とのバーターという形で、AT&Tとの提携を考えるようになる。そこでAT&T、アクティブ・ブック、クライナー・パーキンス、ゴーの4社が組んで、AT&TのRISCチップ、ホビットをベースにしたペンコンピュータのハードウェアを作る会社を設立することになる。
1991年7月、この目的のためにゴーはイーオー(EO)を設立する。ゴーからイーオーへの分離の際に、分離されてイーオーに移されたハードウェア部隊への相談が不十分だったため、ゴーとイーオーの間には感情的対立が発生することになる。
1991年はペンコンピュータブームの年だった。しかし、言葉どおりのブームで実体がなく、すぐに消えてしまう。表面上は華やかなものだった。まず1991年10月、IBMはペンOS/2を発表する。しかし、当時のIBMはリストラの真っ最中であり、有能な人材が次々に辞めていき、ペンコンピュータを支えるだけの力がなかった。
1992年4月に、ゴーからペンポイント1.0が発表される。機能は高くなったが、プログラムのサイズが異常に肥大化し、ペンコンピュータに載せるには大き過ぎた。しかし熱狂的な歓迎を受ける。アップルもゴーのこうした動きを座視できない。
1992年5月、アップルはニュートンを発表し、これまた大きく注目を集めることになる。
アップルのニュートンの登場により、ゴーもAT&Tと急接近することになる。1992年7月、ゴーとAT&Tの提携が発表される。ほぼ同時にマイクロソフトのペンウィンドウズの開発の失敗が明らかになる。マイクロソフトが正式にペンウィンドウズの失敗を認めるのは1995年になってからだが、手書き文字認識はマイクロソフトの予想を超えた難しいものの1つであった。マイクロソフトはこの時点でペンコンピュータからの退却を開始した。
このころ、かねてからくすぶっていたゴーとイーオーの対立は激しくなり、調停に立ったAT&Tはバーチャルコーポレーションという考え方を示すと同時に、1993年6月イーオーの株式の過半数を取得し、イーオーへの支配権の強化を目指すようになる。ゴーは次第に資金切れになり、イーオーとの合併以外の道はなくなってしまう。合併は余剰人員の解雇を伴う。ジェリー・カプランは自発的にゴーを辞職する。
1994年1月、イーオーはゴーを吸収合併する。イーオーは直ちにペンポイントのインテル版と日本語版の開発を停止し、AT&Tのホビット版の開発だけに専念することになる。ところが、吸収合併の2週間後、ここで意外なことが起きる。AT&Tはホビットの開発を中止したため、イーオーの閉鎖を提案するのである。1994年7月、AT&Tはイーオーの閉鎖を決定。こうして、ジェリー・カプランが開発を目指したペンコンピュータのすべては消えてなくなった。
もともとペンコンピュータはまだ無理だと思われていたにもかかわらず、手書き文字認識技術の未成熟さを無視して競争が進んだ。初めに手書き文字認識技術があって、これの応用は何だろうと考えられたのではなく、ペンコンピュータへの期待が最初にあった。これは少し無理なパターンだと思う。また資金繰りのゲームは厳しい。もう少し落ち着いた環境で手書き文字認識技術の成熟を待つことが必要だろう。
現在ジェリー・カプランは、テクナレッジ、ゴーに続いて3番目の会社、オンセールを立ち上げている。オンセールは1997年4月に株式の上場に成功した。順調に推移しているようである。
■補足
ジェリー・カプランのオンセールは、最初順調に推移していたが、eベイの猛攻に耐え切れず、つぶれてしまった。そこでジェリー・カプランは、エッグヘッドの会長兼最高経営責任者になった。しかし、これも2001年8月につぶれてしまい、アマゾンの傘下に入った。少し負け癖がついたかなという感じである。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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