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IT業界の開拓者たち

第33回 帝国を作り上げた3人の男たち

脇英世
2009/3/25

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 1968年7月、インテル設立時のスタッフは12人程度と伝えられる。もっとも、最初からインテルという名前ではなく、ノイスとムーアの名前を取ったNMエレクトロニクスという社名だったらしい。それがインテグレイテッド・エレクトロニクスと変更され、さらに短縮されてインテルとなった。

 インテルは、創業時にはメモリに力を注いでいた。64ビットバイポーラRAMの3101、256ビットMOSSRAMの1101を開発する。

 インテルは1970年に世界初のDRAMである1103を開発し、1971年には電卓用のCPUである4004とEPROMの1702を開発した。1972年には8008を開発、1974年には8080が開発された。このインテル8080がパソコンの市場を切り開くことになる。もしも8080がなかったとしたら、今日のパソコンはなかっただろう。

 アンドリュー・グローブは1979年に社長、1987年に最高経営責任者となる。敏腕経営者といわれているが、経営学の教育は特に受けていない。ロバート・ノイスは政治好きの傾向があった。政府や学会などとの渉外業務に当たったし、国防総省を中心に米国半導体メーカーが結集したセマティックの初代会長となった。ゴードン・ムーアは研究一筋で、結局インテル経営の実務はアンドリュー・グローブの肩にかかってしまったというのが本当だろう。

 インテルにとっての試練は1985年にDRAM市場から撤退したことである。日本の半導体メーカーとは太刀打ちできないとインテルはDRAMの市場から撤退し、マイクロプロセッサ市場に注力することになる。半導体といえばメモリであった当時、マイクロプロセッサを主力に据える、というのは並大抵な決断ではなかっただろう。インテルは8086、286、386、486、ペンティアムと、常にマイクロプロセッサ市場をリードし続けている。

 1991年ごろからインテルは面白い変化を遂げる。600人ほどの専門家を集めたIAL(インテル・アーキテクチャ研究所)をつくって、マイクロプロセッサ以外のソフトウェア分野へ進出を開始したのだ。ソフトウェアの開発を通じてマイクロプロセッサの需要を喚起するという考え方である。600人のうち、70%がソフトウェアの専門家である。IALは発足当時、アーキテクチャ開発部門、通信技術部門、ソフトウェア技術部門、モバイル・ソフトウェア部門、ホーム技術部門があった。

 インテルはいつも先頭を切って開発を続けている企業というイメージを重要視する。そして長い間、配当を行うことなく研究開発投資にも膨大な資金を投入してきた。研究開発の重視は確かにインテルの伝統である。しかし、これまでのインテルの強さは研究開発の強さよりもマーケティングの強さであることは誰もが認めるところだ。

 アンドリュー・グローブは激情家であるが、納得するまで部下と議論し、しこりを残さないといわれている。しかし、そういうきれいごとで終わらない厳しさもあるらしい。ともかくまじめで猛烈に働く。「働くことは喜びだ」といっている。その信条を持っていることがアンドリュー・グローブの強さだろう。

補足

 アンドリュー・グローブは2001年に『スイミング・アクロス』という本を書いた。生まれてから、ニューヨーク市立大学に入り、アンドリュー・グローブと名前を変えるまでの自伝である。インテルのことは何も出てこない。グローブはこれまでに3冊の本を出してきているが、文学的には『スイミング・アクロス』が一番優れた本であろう。編集者が手伝っている形跡はあるが、それはそれである。

 これまでアンドリュー・グローブは自分の生い立ちについてはまったく何も話さなかった。ユダヤ人であることも、ハンガリー動乱の際に祖国を捨てて亡命したことも、はっきりと話したことはない。ところが、この本では克明に自分の生い立ちについて語っている。ハンガリー動乱の際、ポケットに20ドルを入れただけで祖国ハンガリーを捨てたという伝説によって、グローブは貧しい家の生まれのような錯覚に襲われるが、実はアンドリュー・グローブの両親は乳製品の販売でかなり豊かな家庭を築いていたようである。

 本の3分の2程度は幼年時代の回想である。主にブダペストで育った様子が語られる。わたしはブダペストに3、4日逗留したことがある。とても美しい街だった。

 ハンガリー動乱でソ連軍が軍事介入してくると、グローブは国境を越え、オーストリアに亡命する。だが自分で語っているとおり、ソ連軍と戦闘したり、抵抗運動を行って亡命したわけではない。オーストリアでグローブは米国のIRCという団体に必死に頼み込んで米国に行けることになった。米国への航海は嵐に悩まされて大変だったらしい。

 ニューヨークに着いたグローブは親戚の助けで生活を始める。当初、親戚の勤務している大学に入ろうとも考えたが、もう少し良い大学をということで、別の私立大学を訪ねた。しかし、学費が高すぎたのでニューヨーク市立大学に入学した。ここでグローブは猛烈に勉強に励み、米国市民権を取れるまでになった。米国風に名前を変えるところで話が終わる。

 アンドリュー・グローブはモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」が非常に好きらしく、何度もその話が出てくる。わたしもチェコのプラハで、歌劇と人形劇を見た。東京でも見た。東欧の人には極めて人気の高い歌劇であるらしい。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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