第36回 ディスクドライブの帝王
脇英世
2009/3/30
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
アラン・シュガート(Alan F. Shugart)――
元シーゲート・テクノロジーCEO
アラン・シュガートは、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれ育った。1951年レッドランド大学の物理学科を卒業するとすぐIBMに勤め始めた。IBMには18年間いた。アラン・シュガートのIBMにおける経歴はディスクドライブの開発一本やりであった。IBMサンノゼ研究所はもともと磁気ドライブ技術の研究で有名である。
1967年、アラン・シュガートはIBMサンノゼ研究所でディスクドライブ開発チームを率いていた。この年、IBMサンノゼ研究所で8インチフロッピーディスクドライブが開発された。アラン・シュガートはIBMで最初にディスクドライブを搭載したコンピュータを設計したともいわれる。1969年、東海岸のIBMに転勤になった。東海岸のIBMに行くのは昇進のはずだが、西海岸文化に染まったアラン・シュガートにとっては、数週間でもニューヨーク生活は耐え難かった。そこでアラン・シュガートは西海岸に戻り、職を探した。
当時、メモレックスが周辺機器担当副社長を探しており、アラン・シュガートはこれに応じた。ここで比較的無名のアラン・シュガートを一挙に有名にする事件が起きる。
アラン・シュガートがメモレックスに転職すると、100人とも200人ともいわれるIBMの技術者たちが、IBMを辞めてアラン・シュガートを慕ってメモレックスに入社したのである。アラン・シュガートがIBMを辞めると分かると、ついて行きたいというIBM社員からの電話が殺到したという。アラン・シュガートはまるで中世の童話にあるハンメルンの笛吹きのようである。実際「笛吹き」というニックネームがあったようだ。話半分としても、アラン・シュガートはよっぽどの親分肌なのだろう。アラン・シュガートはIBMサンノゼ研究所の近くにあるパドック・ラウンジというバーでビールを飲みながら、めぼしい技術者の引き抜きを行ったらしい。
1973年、アラン・シュガートはメモレックスを飛び出して、シュガート・アソシエイツを創立した。ここでもまた「笛吹き」の名に恥じず多くの追随者を引き連れて出て行った。シュガート・アソシエイツは当初8インチフロッピーディスクドライブを製造した。シュガート・アソシエイツが定めたインターフェイスがSASI(Shugart Associates system Interface)であり、1986年ANSIでSCSI(Small Computer Systems Interface)として制定された。
シュガート・アソシエイツにゲアリー・キルドールという青年が出掛けていき、フロッピーディスクドライブをもらって、これを動かすためのプログラムを書いた。これがCP/Mと呼ばれるプログラムで、いまのMS-DOSのもとになっている。もともとCP/Mはシュガート・アソシエイツ製の8インチフロッピーディスクドライブを動かすためのコントロールプログラムとしての性格も持っている。
さて、会社創立2年目の1974年、アラン・シュガートは5.25インチフロッピーディスクドライブを開発した。しかし、ほどなくしてアラン・シュガートは自分の創業したシュガート・アソシエイツの取締役会から解任された。不況で業績が悪く、ベンチャーキャピタリストを中心とする取締役会はアラン・シュガート以外の誰かほかの人に経営を任せるべきだと考えたのである。解任されたアラン・シュガートは、シュガート・アソシエイツの社名からシュガートの名を削るように提訴したが、裁判所は受け入れなかった。
解任されたアラン・シュガートは4カ月間、毎週失業保険の110ドルをもらいに行った。社長の失業保険にしてはずいぶん安いがそんなものかもしれない。失意のうちにアラン・シュガートはサンタクルツへ行き、数人の友達と浜辺でバーを経営し、鮭の釣り舟を買った。
脱線だが、わたしもサンタクルツで鮭のステーキを食べたことがある。米国人は美味というが、日本人にはとてもではないが大味で食べられない。醤油かなんかを隠し持っていかなければ食べられない。ともあれ、当時のアラン・シュガートはポルシェの月賦の支払いに四苦八苦していたという。
さて、そんな中アラン・シュガートは2番目の妻リタと再婚し、仕事をせざるを得なくなった。そこへIBM以来の友人フィニス・コナーが小型のハードディスクを作るというアイデアを持ってきた。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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