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IT業界の開拓者たち

第39回 偉大なディレクター

脇英世
2009/4/3

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 こうしたMITの軍事研究への積極的接近の結果、リックライダーは1950年にMITの音響研究室に移籍した。チャールズ計画に参加した彼は、そのまま成立したMITリンカーン研究所の所員となった。彼の仕事は、防空指揮管制システムのレーダー画面にどのように情報を表示させるか、つまり人間と機械の間のインターフェイスの問題である。研究の中心はレーダー表示装置だったが、レーダーとのインターフェイスとして視覚だけでなく、聴覚や音声も考慮に入れた。レーダーの情報を音声で出力したりする装置である。

 1953年、リックライダーは経済学部の中に大学院生を集めて心理学の研究をするヒューマン・ファクター・グループを作った。彼には若い大学院生たちを引きつけるカリスマ性があり、彼らがリックライダーを囲んだ研究会を求めたからである。このグループは音源の検出の研究を行い、ついには博士号の請求にまで進んだ。だが、こうしたことは混乱を招くと大学の上層部には歓迎されなかった。

 大学に居心地悪さを感じていたリックライダーは、1957年6月30日、MITを去り、BBN社の心理音響、工学的心理学、情報システム担当副社長に就任する。当時BBNは従業員40人程度の小さな会社であった。

 BBN社はDECのPDP-1というミニコンピュータを持っており、リックライダーはPDP-1をディスプレイ・システムを使って対話的に使うことに熱中した。

 このころ、リックライダーは科学や技術関係の企業で働いている人の知的労働の、時系列的な行動解析に類するものがないのに気が付いた。そこでリックライダーは自ら実験台になって調べてみることにした。

 やってみると、ほとんどの時間が記録を取ること自体に費やされてしまったが、その結果、リックライダーの行動様式が明らかになった。

 普通に予想されることではあるが、彼の思考時間の85%は、考えたり、決定したり、自分が知りたいと思う事象を学ぶことでなく、その準備態勢に入るために使われていた。情報を消化するよりはむしろ、情報を見つけたり、獲得するためにずっと多くの時間が割かれていたのである。

 こうしたことは機械、つまりコンピュータにやらせた方がよいというのがリックライダーの結論だった。いまではありふれた結論かもしれないが、当時コンピュータは計算する機械であり、コンピュータのそういう使い方に行き着く人は少数派だったのである。

 1962年、ARPA(先進研究計画局)の部長ジャック・ルイーナは、SDC(システム・デベロップメント・コーポレーション)を救済するため、SAGEの指揮統制システム計画を統括し、国防顧問会議の勧告した新しい研究計画に応えられる人材を探していた。つまりIPTO(情報処理技術部)の部長である。候補として挙がった1人がJ・C・R・リックライダーであった。IPTO部長の選考で、リックライダーは米国の防空指揮管制システムの問題は、人間と機械の共生の問題であり、人間とコンピュータの対話型インターフェイスの問題であると論じた。また防空指揮管制システムはバッチ・システムであるべきでなく、タイムシェアリング・システムであるべきだと、持論を展開した。

 ARPA自体は北米防空と指揮管制の通信ネットワークを必要としていたが、それをリックライダーは対話型のコンピュータで制御しようと主張したのである。彼の提唱するプランはARPAの要求に合致した。

 こうして1962年10月、ARPAの第3代局長ルイーナはリックライダーをIPTOの部長に任命する。初めIPTOはOPTBS(情報処理技術と行動科学部)として出発したが、行動科学の関係者が興味を示さず、行動科学は外された。そこで短くしてIPTO(情報処理技術部)になった。

 ARPAのIPTOの予算分配方式には厳格な審査などはなく、リックライダーが良いと思えば、かなり自由な裁量で予算を配分できたらしい。この方式は危険なところもあるが、思い切って新しい研究を援助できるという利点もあった。

 例えば、スタンフォード・リサーチ・インスティチュート(SRI)に、ダグラス・エンゲルバートという研究者がいた。彼は人間の知的能力を増進させる道具としてのコンピュータという思想を持っていた。エンゲルバートは、この考えを1962年、SRIレポート 「人間の知性の増進:概念的フレームワーク(Augmenting Human Intellect:A Conceptual Framework)」としてまとめた。

 エンゲルバートはこのレポートを手に、リックライダーを訪ねてARPAのIPTOの援助を要請した。リックライダーのARPAのIPTOはすぐさま援助を決定し資金援助を行った。

 こういう乱暴なことができたのはキューバのミサイル危機の直後だったからだ。軍事研究は完全な聖域であり、余人が口を挟めるような状況ではなかった。いまでも米国の予算関係の書類を読むと、軍の予算は完全な聖域で手が付けられないのが分かる。

 リックライダーは管理職であるだけでなく、いろいろなアイデアも出していた。1962年にはコンピュータ・ネットワークの必要性を提唱しており、1963年には「インター・ギャラクティック・ネットワーク」の概念を提唱していたといわれる。

 1964年、リックライダーはARPAを去り、IBMに行った。ARPAのIPTOの後任部長としてリックライダーは弱冠26歳のイワン・サザーランドを推薦した。サザーランドは1965年に交代し、33歳のロバート・テイラーが後任となった。ロバート・テイラーもリックライダーと同じく哲学専攻で実験心理学を専門にしていた。ロバート・テイラーは1965年から1969年までIPTOの部長だった。

 IPTOの部長在職期間中の1968年、ロバート・テイラーはリックライダーとともに「通信装置としてのコンピュータ」という論文を書いた。

 ロバート・テイラーに交代したのがローレンス・ロバーツである。ローレンス・ロバーツは1969年から1973年までIPTOの部長になる。

 1964年に、リックライダーがARPAのIPTOの部長を辞めてIBMの研究所に入社したのは、タイムシェアリングに弱かったIBMに誘われたためである。MITとIBMは対立していたから、これもある意味で奇妙な行動である。実際に入社してみると、IBMの研究所のカルチャーはまったくリックライダーに合わなかった。そこで1966年半ば、リックライダーはボストンのIBMケンブリッジ・サイエンス・センターに転出を希望し、認められた。これはIBMを辞めるまでの職探しのためのポストにすぎない。

 リックライダーは1968年にMAC(Machine Aided Cognition, Multi Access Computer)プロジェクトのディレクターとなるためMITに戻った。また1974年にはARPAに戻ってIPTOのディレクターとなる。リックライダーはその後再びMITに戻って1986年に退職するまでそこにとどまった。結局リックライダーの派閥は、5代十数年の長きにわたってARPAのIPTOの職を独占し続けたのである。

 スプートニクショックのころの米国軍部には悲壮感はあったものの、意識的にソ連の脅威をあおった部分があったといわれている。当時のソ連にそれほど多数の戦略核ミサイルは存在していないことを米国軍部は知っていたらしい。米国軍部にとっては国防費の引き出しそのものの方が重要であり、リックライダーの研究費の配分状況を見ても分かるように、使途そのものにはかなりずさんなところがあった。

 基礎研究という名目で、国防そのものには無関係な研究に大盤振る舞いが行われた。当時、科学の基礎体力をつけることが国防の基礎だという考え方がなされていたのである。米国の民主主義の勝利は、科学の基礎体力の充実にありとした。

 熱核戦争による米国の危機をあおりながら、実際には米国が負けるという意識は希薄だった。米国としては社会主義国ソ連に先端技術の分野で追い越されたことの方が問題だった。

 米国軍部は国防関係予算の大幅な増額の方に関心があった。だからこそ、インターネットの構築を担当するARPAのIPTOの予算を北米防空の本義から離れた研究に使うこともできた。

 米国がソ連に本当に負けるかもしれないと、米国軍部が真剣に考え始めたのはベトナム戦争で米国の敗色が濃くなってきてからで、1969年からは軍事研究以外の研究に対する助成は激減することになる。

 道楽に使うお金はなくなったのである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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