第5回
私が歩んだスーパーフリーエンジニアへの道
吉川明広2001/9/14
■古川氏のコンピュータ事始め
現在は、高度な専門コンピュータシステムの構築や技術書の執筆を手がける古川氏だが、意外なことに、彼はもともと文系出身だった。
CGにあこがれてコンピュータの世界に入ったという古川氏 |
「私は初め、グラフィックデザイナーになりたかったんです。それが、あるときテレビでCGを見て衝撃を受けましてね。これはすごい、これは将来性があるな、と。それで高校を卒業後、1985年にソフトウェアハウスのI社に入社しました。コンピュータ関係の会社に入ればCGができるだろうと、気楽に考えていたんです」
そんな彼を待ち受けていたのは、夢に見たCGの世界とは似て非なるものだった。なんと、銀行への出向を命じられ、金融システムを担当することになったのだ。
「これはちょっと違うだろう、という思いは確かにありました。でも、銀行の汎用機システムがすごく新鮮で、圧倒されたんですよ。初めてマシン室に行ったとき、でかいテープは回っているし、ディスクはごうごう鳴っているし、プリンタとかコンソールがいっぱいあるし、オペレータもたくさんいるしで、“映画の世界みたいだ”って、もう単純に感激しちゃって(笑)」
この無邪気なまでの好奇心の強さが“武器”となり、彼はデバッグのたびにマシン室に行くのが楽しみになり、どんどんコンピュータにのめり込んでいったという。
当時、彼が担当していた金融システムには、本番環境とテスト環境の2つのシステムがあり、テスト環境のシステムは、いつでも自由に利用できた。そこで彼は、夜の時間帯を利用して、自前で買い込んだコンピュータ関連の本を見ながらサンプルプログラムを入力し、それをコンパイルしたり実行したりしながら“個人研究”に熱中した。当時の上司が聞いたら怒り出しそうな話に思えるが、案外そんな彼を温かく見守っていたのかもしれない。
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古川氏のI社時代の主な業務 |
その後、第3次オンラインプロジェクトにかかわり、開発環境の準備作業などを経験。1年ほどで汎用機システムに慣れたころ、彼に転機が訪れる。出向先の銀行で知り合った同業他社のある人がD社に移り、“新しいことを始めるから来ないか”と、彼を誘ったのである。
「その彼が、マイコンとか製品系のシステムをアセンブラで開発する、っていうんですよ。そのとき、“アセンブラか! こいつを覚えればコンピュータの中身をもっと理解できるぞ”と思いましてね。これはチャンスだと」
このときの“やりたいことを追求する”というこの純粋な姿勢は、いまでも彼のベースになっているという。こうしてD社に転職した彼は、まずコピー機のエンジン部分をアセンブラで開発する仕事に携わった。これは、コピー機の中のモーターや焼き付けヒーターなどを、マイコンとファームウェアで制御しようというものだった。現在でこそ当たり前の機器制御手法だが、当時はまだ類例があまりなく、手探り状態での開発は苦労の連続だったという。
「それはもう、大変でした。モーター速度がうまく制御できなくてコピーのスキャナヘッドが端から端まで“バンッ”て感じでいっぺんに走ってしまうとか、ヒーター温度が上がりすぎて、内部が焦げて臭くなったりとか(笑)」
その後は、主にFA向けの制御システムを対象に、OS-9やUNIXにC言語を組み合わせるという“先進的”な試みを行い、マルチプロセスのプログラムを作成する仕事に従事。持ち前の熱心さも手伝って、彼はめきめきとプログラミングの腕を上げていった。
「このころになるともう、アセンブラだろうがCだろうが何でも来い、という感じになりましたね」
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古川氏のD社時代の主な業務 |
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最前線で必要なスキルとキャリアを知る! 第5回 | |
私が歩んだスーパーフリーエンジニアへの道(1/4) | |
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私が歩んだスーパーフリーエンジニアへの道(3/4) | |
私が歩んだスーパーフリーエンジニアへの道(4/4) |
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