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パソコン創世記


草むしりと評価用キットの日々

富田倫生
2009/8/20

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 川崎の集積回路事業部から、半導体の大型工場が設置された九州日本電気熊本工場へ籍を移していた後藤富雄は、かつての上司、渡辺和也を悩ませることになるゲテ物、マイクロコンピュータを、草むしりの合間を縫って大いに楽しんでいた。

 渡辺の胃痛が始まるちょうど1年前、1974(昭和49)年のことである。

 前年10月に勃発した第4次中東戦争をきっかけとした石油ショックにより、日本経済は大きな不況に見舞われ、この嵐の中でマイクロコンピュータを生んだビジコン社は倒産に追い込まれる。

 この不況下、半導体の需要が急激に落ち込む中で、他のメーカーは設備投資を抑えたのに対し、日電は生産ラインの強化を敢行。のちに振り返って、この時期にあえて設備投資を行ったからこそ、その後目覚ましい勢いで盛り返してきた需要に応え、日電の半導体部門がさらにいっそう飛躍しえたのだと指摘されることが多い。

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 ただし、石油ショック後の一時期ではあったにせよ、半導体の一大工場を抱えた九州日本電気では生産ラインが止まり、技術者までがとにかく仕事を求めて草むしりまでやらざるをえなかったことも、また事実である。

 草むしりの合間を縫って、いや正確には定時までの草むしり作業を終わったあと、後藤は世界初のマイクロコンピュータ4004を使ったエバリュエーションキットに熱中していた。

 エバリュエーション、つまりは評価用キット――。

 まだ海の物とも山の物とも分からないマイクロコンピュータに、果たしてどのような使い道があるのか技術者に評価をあおぐ。いやその前に、とにかくマイクロコンピュータなる代物のイメージをつかんでもらう。そのために作られたキットである。ただしこのキット、組み立て終わってもそれ自体では、うんともすんともいってくれない。キットには、入力のための部品も出力のための部品も、組み込まれていないのである。

 入出力機器がないとは、現在のパーソナルコンピュータに当てはめれば、キーボードもディスプレイも付いてない状態にあたる。もちろんマウスもなければ、プリンターもない。これだけでは、コンピュータ本体にプログラムもデータも伝えることができないし、当然のことながら処理結果を見ることもできない。

 当時の評価用キットは、あくまで技術者用に作られたものである。

 キットそれ自体はアマチュアっぽい代物であっても、あくまでプロ用。この超小型コンピュータキットは、テレックス通信用の端末として開発された、テレタイプ社のテレタイプ、ASR-33をつないではじめて動かすことができたのである。

 キーボード、プリンター、紙テープパンチ、紙テープリーダーを1体にまとめたASR-33は、本来の用途以外にも、比較的小型のコンピュータシステムの入出力機器として使われていた。

 キット程度の代物に、新品で約55万円、中古でも30万円はするASR-33をつなぐというのも、今からすれば、ずいぶんとバランスの悪い話に聞こえる。だが、キットとはいえあくまで技術者用。マイクロコンピュータを理解しようとするプロのいる会社なら、テレタイプの1台や2台あって当たり前という発想だったのだろう。

 事実、仕事とは無関係に4004のキットを買ってきた後藤富雄も、ちゃっかりと会社にあったテレタイプを利用している。音の大きさで悪名高かったASR-33に組み立て終わったシステムを接続し、騒音をまき散らしながらとにかく動かしてみることに、この時期、後藤は猛烈に熱中していたのである。

 1967(昭和42)年、鈴鹿工業高等専門学校を卒業して後藤富雄は日電に入社。できたばかりの半導体事業部に所属し、以来半導体作り一筋に打ち込んできた後藤が、超小型とはいえコンピュータのシステムに興味を持ってこの時期いじり回していることは、けっして当たり前のことではない。

 技術者でない人間、特に私のように文科系出身の人間にとっては、半導体もコンピュータも、ソフトウェアもハードウェアも、ともかく常人には近づけぬコンピュータの国のお話と、ごっちゃに見えてしまいやすい。

 しかし、半導体作り、特にこの時期以前の集積回路作りは、コンピュータとはほとんど何の関係もなかったのである。集積回路とは、ちっぽけなシリコンの小片の上に、トランジスタ、コンデンサー、抵抗、そして配線と回路を構成する部品を作り付けたものである。基本的には、部品の延長線上にあるもので、発想の原点はあくまで部品をいくつまとめられるか。コンピュータシステムという全体からの発想とは、まったく方向が逆である。それ自体部品なのだから、集積回路は電気回路を持つものなら何にでも、テレビにもラジオにも使われる。

 現実に集積回路作りに携わる技術者も、物理屋や化学屋がほとんど。作業の中心は、チップ上に回路を作り付けていくために何度も重ね焼きしたり、炉で焼いたり冷やしたりの繰り返しであった。

 もちろん日本電気全体を見回してみれば、コンピュータの専門家がいないわけではない。他の日本の大型コンピュータメーカーがすべて、コンピュータ界の巨人、IBMとの互換路線、要するにIBMの用意した土俵に上がりIBMに合わせながら価格などで競争する方針をとったのに対し、日電は唯一独自路線を選択。あくまで従属することを前提とした互換路線に対し、IBMという強大な敵に対しては、原則的ではあるがいかにも危険な独自路線に従って大型コンピュータを育て、見事に健闘してきた情報処理の部隊がある。

 しかしこと半導体事業部門に限っていえば、コンピュータに関連した仕事の経験があったり、コンピュータに興味を持ったりという技術者は、ほとんど存在していなかったのである。

 その意味からいえば、後藤富雄は異色だった。

 そして、彼の特異性は、かつての上司、渡辺和也の特異性でもあった。

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