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パソコン創世記


弱小「マイクロ部」の誕生

富田倫生
2009/8/19

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 「これじゃマイクロコンピュータ販売部じゃなくて、マイクロ部になりかねんな」

 硬くこわばったままの胃に手をそえながら、渡辺和也はつぶやいた。

 新設されるマイクロコンピュータ販売部の部長にとの内示を受け、1976(昭和51)年2月の正式スタートに向けて半年ほど前から根回しを進めてきた。しかし動けば動くほど、気分は重くなり、胃の痛みは激しくなる。

 販売部の部長にといわれても、営業の経験などまったくない。

 電気工学を学んだ山梨大学工学部を、1954(昭和29)年、第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被爆した年に卒業。大手の家電メーカーに就職し、技術者として脂の乗りきった時期、1965年に日本電気に転じた。

 それ以降の10年間も、技術畑一筋である。

 マージャンができるわけでもなければ、酒席でのとりなしが巧みなわけでもない。

 さらに、営業は願い下げといきたいのに加え、売り込みを図るもの自体も難物である。

 販売部のスタッフにと目星をつけていた連中に「マイクロコンピュータ販売部に来ないか」と水を向けてみると、反応はすこぶる悪い。誰も彼も露骨に尻込みしてみせ、中にはあからさまに「そんなゲテ物だけはかんべんしてくれ」と口にする者すらある。

 これまで大きな図体をしていたコンピュータの中心部分の機能を、ごく貧弱な形ながらちっぽけな半導体のチップの中に押し込んでしまったマイクロコンピュータ――。

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 確かに何やら革新的なイメージだけは強いこの代物を売り込んでいくためにマイコン販売部が新設され、自らが部長としてその先頭に立つことになったわけではあるが、営業のえの字も知らず、みながマイクロコンピュータをゲテ物扱いするようでは、スタッフも貧弱、売り上げも貧弱のマイクロ部になりかねない。

 ふさぎがちになる気持ちを気力で鼓舞しようとする渡辺だったが、間断なく続く胃の痛みだけは抑えられなかった。

 渡辺自身、コンピュータの持っている機能が曲がりなりにも小指の先ほどのチップに収まると聞けば夢のような話と感心はしても、果たしてそれを何に使ったらよいのか、どういった層に売り込みを図ったらよいのか、さっぱり分からなかったのである。

 この時期、渡辺を大いに悩ませることになったマイクロコンピュータなる代物は、4年前の1971(昭和46)年11月、当時日本で繰り広げられていた電卓戦争勝ち残りの秘密兵器として姿を現わした。当時、日本国内ではカシオ計算機とシャープを中心に激しい電卓の低価格化競争が繰り広げられており、その様は電卓戦争とも形容されていた。

 この電卓戦争に加わったメーカーの1つに、ビジコン社がある。

 国内でのシェアはごくわずかでそれゆえ知名度も低かったがアメリカ向け輸出ではトップ。1966(昭和41)年7月には、当時40万円台が相場とされていた電子卓上計算機界に、30万円を切りしかも性能面でも従来機を大きく上回った新製品をデビューさせて業界を震撼させる。さらに1971年1月には、ポケット電卓の先駆けとなった「てのひらこんぴゅうたあ」を発表。

 技術開発の面では常にトップに立ってきたビジコン社だが、対米輸出を経営の柱としていた同社にとって、1973(昭和48)年の石油ショックの与えた影響は深刻だった。円安による大幅な為替差損を背負い、作れば作るほど赤字となる事態に立ちいたったのである。1974年2月、ビジコン社はついに倒産に追い込まれる。しかし倒産後も同社は、マイクロコンピュータを生んだルーツとして歴史に名をとどめることになった。

 商品の低価格化を目指し、製造コストの切り下げのために電卓メーカーがとった戦略は、いわば「輪転機方式」とでも呼ぶべきものだった。

 新製品に持たせる機能が決まれば、まずマーケティングを行って、はけるだろう個数を想定してしまう。そして半導体メーカーに、新製品用LSIの設計を依頼し、設計が終わって原版にあたるマスクが作られると、ともかく想定した個数分のLSIを、輪転機を回すように作りきってしまうのである。

 一般に出版社では、単価が高く部数の読みにくい書籍はそこそこの部数を刷って売り出し、市場動向を見て必要とあらば増し刷りする。一方、単価の低い雑誌に関してははけるだろう部数を読みきって輪転機で一挙に刷ってしまい、コストの低減化を図る。

 電卓戦争においても、主要なメーカーは、この雑誌方式=輪転機方式を採用することで低価格化に成功し、シェアを広げていった。

 それに対しビジコン社は、超輪転機方式とでも呼ぶべきまったく異なった方法によって、コストの切り下げを図ったのである。

 ビジコン社は、それまでの常識からすれば半完成品のLSI、つまりは完全に印刷が終わっておらず、白い頁の残ったままのLSIを利用することを考えた。

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