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パソコン創世記
原爆による自滅から人類を救う道具の夢

エンゲルバートと国防省高等研究計画局

富田倫生
2009/11/11

「マウスと名付けた小さな箱」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 一般的なタイプライター型のキーボードをエンゲルバートは否定しなかったが、マウスを使うたびに指の置き換えを求められる点には対処したいと考えた。解決策として考案されたのは、ピアノから鍵盤を5本だけ抜き取ってきたようなキーセットだった。和音を弾くようにキーを組み合わせて押すことで、アルファベットが入力できるように装置は仕立てられた。右手にマウス、左手はキーセットに置けば、すべての操作が指の置き換えなしで可能になった。

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 さらにエンゲルバートらは、ディスプレイ上の画面を区切って片方にはテキストを、もう一方にはグラフィックスを表示するといった使い方も試みていた。画面上にいくつかの窓を開いてそこに別々の情報を映し出すことで、たくさんの画面を並べて見比べながら進めていたような作業を、1つのディスプレイで行うことを彼らは狙っていた。

 こうした技術を盛り込んだ実験システムは、増大研究センターではオンラインシステム(oN Line System)を略してNLSと呼ばれていた。

 エンゲルバートのものをはじめ、さまざまなコンピュータのプロジェクトを支援していたARPA(国防省高等研究計画局)は、1967年春、資金を提供しているすべての研究所のマシンをネットワークで結ぶ計画を発表した。このARPANET★によって、自らのNLSが距離の壁を乗り越えてしまうことに、彼は知的な衝撃を受けた。

 ★1969年に運用が始まったARPANETは、その後、研究機関を結ぶCSNET(Computer Science NETwork)などとの接続によって規模を拡大し、インターネットへと発展していく。エンゲルバート氏がARPANET越しに見た夢は、今、大きく花開いている。本書の準備にあたっては、筆者もまたインターネット経由でエンゲルバート氏の協力を得ることができた。

 1968年12月、ACMとIEEEがサンフランシスコで共催した、秋のジョイントコンピュータ会議で、増大研究センターはNLSのデモンストレーションを行った。

 会場となったブルックスホールに運び込まれたNLSの端末は、この日のために借り受けたマイクロ波回線によってスタンフォード研究所のコンピュータに接続されていた。ディスプレイの表示は、NASAから借りた最新のビデオプロジェクターによって、縦横20フィートのスクリーンに投射された。マウスや5本指のキーセットを使ってエンゲルバートがNLSを使いこなしている様子は、カメラで撮影されて画面上の窓にテキストと並べて表示された。分割された窓には、研究所で同時にシステムを操作している画面やビデオの映像がつぎつぎと切り替えられて映し出された。

 ユタ大学の大学院でコンピュータ科学を専攻していたアラン・ケイは、この日、3000人あまりの聴衆とともに会場となったブルックスホールの席にいた。
 
  アラン・ケイは1940年5月、オーストラリアから移住した生理学者を父として生まれた。画家だった母は、ピアノも巧みに弾いた。ケイの愛した祖母は、女性の社会的な権利の獲得のために今世紀のはじめから働いた活動家だった。

 ニューヨークの郊外に育ったケイは、2歳半で字を覚え、小学校に上がる前にたくさんの本を読んでいた。10歳のときには、ラジオのクイズ番組「クイズキッズ」のチャンピオンになったケイは、J・D・サリンジャーの描くシーモア・グラスを思わせる繊細で多感な早熟の天才だった。教師の物言いに欺瞞のかけらがまじると、とたんに反抗的な態度をとったケイは、小学校からハイスクールにいたるまで学校には一貫してなじめなかった。最初に入ったベサニーカレッジも、すぐに退学になった。

 仲間たちとコロラド州のデンバーに移り住んだケイは、以降数年をロックンロールのバンドでギターを弾いて過ごした。

 1961年に徴兵されて空軍に入るまで、ケイはコンピュータを経験していなかった。

 だがプログラマーの適性試験にたまたま合格したことで、ケイはプログラミングを学ぶことになった。1963年に除隊すると、ケイは数学と分子生物学を学ぶためにコロラド大学に入った。彼自身「後にコンピュータ科学の勉強に非常に役に立った★」という演劇に入れ込んだものの、今回はどうにか卒業にこぎ着けた。だが、どんな仕事につきたいかという気持ちは、この時点でも固まっていなかった。

 ★『ザ・コンピュータ』(ソフトバンク)1990年6月号、「KEYMAN USA 次世代のコンセプターが考えている明日」所収のアラン・ケイへのインタビュー。

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