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パソコン創世記
日本電気、電子計算機本流の系譜

「これで世の中は変わる」

富田倫生
2010/1/5

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 帰京した小林はさっそくコンピュータ研究班の組織化を指示し、研究所のメンバーに渡部たちが加わって、基礎的な勉強会が始まった。

 そして1956(昭和31)年2月、日本電気はパラメトロン電子計算機、NEAC-1101の開発計画を正式にまとめ、本設計に着手した。

 開発方針の決定にあたっては、研究所側と渡部たち工場側とのあいだに、意見の相違があった。

 ごく基本的なものから始めようと考えた研究所に対し、必要な道具を早く作りたいと考えていた渡部はより大きなもので行こうと主張した。結局、両者の意見が平行線を保ったまま、基礎研究はこれまでどおり共同で進めるが、第1号コンピュータの開発には、研究所のみであたることになった。

 だが方針がそう決まった直後、渡部たちにもコンピュータ開発のチャンスがめぐってきた。

 当時、東北大学で音声情報処理をテーマとしていた大泉充郎は、研究に求められる膨大な計算処理に直面していた。「必要な道具は作るしかない」と踏ん切った大泉は、文部省に予算要求を出して1957(昭和32)年に認められ、学内の開発体制を整えた。電子計算機の開発主体が、大学から企業に移り変わりつつある世界の流れに注目した大泉らは、「ぜひ我々にやらせてほしい」との日本電気からの働きかけに乗った。「日本最大の計算機」を目指して大幅に機能を高めた第2号機、SENAC(仙台自動計算機、日本電気の商品名ではNEAC-1102)のプロジェクトは、渡部たち工場側が研究所の協力を得て、同時並行で進めることになった。

 1957(昭和32)年9月、日本電気は電子計算機を担当する電子機器工業部を新設し、両プロジェクトの開発担当者をここに集めた。この専門セクションではさらに、もう1つの次世代素子の候補であるトランジスターを用いた機種の開発も進められた。

 1958(昭和33)年3月、日本電気は第1号機NEAC-1101の稼働にこぎ着けた。その直後に東北大学の通信研究所に搬入されたSENACは調整に手間取ったものの、同年の11月には動きはじめた。

 このSENACの計算能力を目の当たりにして、小林宏治はあらためて電子計算機の力を実感させられた。もちろん通信の技術開発のためにも、電子計算機は大きく貢献するだろう。ただしその可能性は、通信といった一分野にとどまるわけはなかった。

〈これで世の中は変わる。日本電気は本格的に電子計算機をやらなければいけない〉

 小林はSENACを前に、そう決意した。

 次世代素子のもう1つの候補であるトランジスターには、電気試験所(通産省電子技術総合研究所の前身)が開発を終えていたMARK IVの技術をもとに、開発作業に着手し、1958(昭和33)年の9月には早くも、NEAC-2201と名付けたトランジスター型の第1号機が動きはじめた。

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