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パソコン創世記
日本電気、電子計算機本流の系譜

SENACプロジェクトの遺産

富田倫生
2010/1/7

「3年ぶりの大卒新人」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 配属された伝送技術課では、のちに会長となる大内淳義が、音声をパルスに載せて送る技術に取り組んでいた。

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 当時国鉄は青森-函館間に専用の通信回線を持っていたが、これを多チャンネルの雑音の少ないものに切り替える計画が動きだしていた。電電公社通信研究所の依頼を受け、日本電気は音の信号に応じてパルスの位置をずらすPPM(パルス・フェイズ・モジュレーション)と呼ばれる技術を用いた通信装置の開発を進めていた。

 青森-函館間の回線は1952(昭和27)年10月には開通したが、その直前に大内が肺結核で倒れ、1年半の療養生活に入った。石井は青森-函館に続いて、東北電力が仙台と会津若松間に設ける専用線に同じ技術を生かす作業に携わった。だが復帰した大内と入れ替わるように自らも結核を患い、手術と療養生活を余儀なくされた。

 1955(昭和30)年に職場に復帰した石井は、心機一転、日本電気にとっても新しい仕事となるコンピュータに携わることになった。伝送技術部に新設された電子計算機係に配属となり、SENACのプロジェクトに加わった。

 1959(昭和34)年4月の入社そうそう、浜田はかつて石井がチーフを務めたSENACプロジェクトの遺産と格闘することになった。

 当時日本電気は、トランジスターの将来性を買ってパラメトロンの開発を打ち切る方針を固めていた。ところがそこに、防衛庁技術研究所から東北大学に納めたSENACと同じものを作ってほしいとの申し入れがあった。科学技術計算用のコンピュータを検討した結果、防衛庁はSENACが最適であるとの判断を下した。この開発担当を、入社そうそうの浜田が命じられた。

 会計検査上の都合から、SENACは1958(昭和33)年3月に取りあえず東北大学に納入されていた。以来渡部は、調整という名の仕上げ作業を仙台で半年以上も続けた★。

 ★東北大学の大泉充郎らがどのような経緯で電子計算機の開発を目指し、渡部和らがいかに悪戦苦闘を続けたかは、東北大学側を情報源とした、八甫谷邦明「SENAC開発余話」(『コンピュートピア』1975年8月号)に詳しい。

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