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パソコン創世記
日本電気、電子計算機本流の系譜

NEAC-1103

富田倫生
2010/1/8

「SENACプロジェクトの遺産」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 このSENACと同じものを作れと命じられた浜田は、工場に残されたぼろぼろの設計図を開いて頭を抱え込んだ。A1サイズの大きな図面用紙を何枚も貼り合わせ、数十メートルの巨大な巻物とされた設計図をたどっていくと、ところどころに読めない箇所があった。手元にあるものはもとの図面からとった青焼きコピーだったが、原図が何度も消しゴムで訂正されているらしく、さっぱり判読できなかった。未完成のまま納入され、仙台で手直しを繰り返しただけに、図面上には論理の誤りもかなり残されていた。

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 石井の指導を受けながら悪戦苦闘の末に仕上げたマシンは、NEAC-1103と名付けられてようやく納入にこぎ着けた。

 1950年代から手探りで電子計算機への取り組みを始めた日本のメーカーは、その後、本格的な事業の展開を目指して次のステップに踏み出そうとしたとたんにIBMの壁に直面させられた。

 敗戦後間もない当時、アメリカからの特許出願には特別な優先権が認められていた事情もあって、電子計算機に関する同社の特許は、日本ではきわめて強力な形で成立していた。

 一方、IBM側にも、日本の子会社から親会社へ配当を送金することが外資法で認められていないという弱みがあった。日本IBMはそこで、技術提携に対するロイヤリティーとして送金するという手で外資法をすり抜けようと考えたが、通産省はこれを認める条件として、特許の公開と日本IBMの製造機種をパンチカードマシンに限定するように迫った。IBM側はこの提案を拒否し、以来交渉は4年にわたったが、1960(昭和35)年12月になってようやく、製品価格の5パーセントの特許権使用料を各社が支払うという条件で契約が成立した★。

 ★IBMとの特許問題に関する経緯は、前出の『日本のコンピュータの歴史』所収「特許問題とIBM特許契約」(宮城嘉男)に、明快にまとめられている。

 この契約によって訴訟の恐れを回避した日本の各社は、続いて性能においてもIBMと対抗していくために、競ってアメリカの企業との技術提携に乗り出した。

 1962(昭和37)年7月、日本電気はハネウェル社と組んだ。これに先だってRCA社との技術提携に踏み切った日立製作所は、提携先の路線にもとづいてIBM機用に開発されたプログラムをそのまま利用できる互換路線をとった。

 その後、順調に電子計算機を伸ばすことのできた日本のメーカーにとって、沖縄返還と日米繊維交渉の絡みで1965(昭和40)年前後から浮上しはじめた電子計算機の自由化論議は、大きな脅威だった。

 自由化によってIBMに一気に国内の市場を押さえられることを恐れた通産省は、国内のメーカー6社を再編成して体質強化を図り、自由化への備えを固めようと考えた。1971(昭和46)年、電子計算機の自由化のスケジュールが決定されたこの年、業界1位、2位の富士通と日立はIBM互換路線に沿ったMシリーズの開発を目指して手を結んだ。一方、三菱電機は沖電気と組んでCOSMOSシリーズを、日本電気は東芝と組んでACOSシリーズを、それぞれIBM非互換で開発することとなった。各グループは開発費の50パーセントに相当する補助金を国から交付され、IBMに対抗しうるマシンの開発に取り組んだ★。

 ★日本のコンピュータメーカー各社の歩みを、視点を幅広く取って横断的に跡付けた著作としては、『日本コンピュータ発達史』(南澤宣郎著、日本経済新聞社、1978年)、立石泰則の労作『覇者の誤算』(日本経済新聞社、1993年)などがある。

 国の手厚い保護を受けて進められた共同開発の成果は、1974(昭和49)年から翌年にかけての製品発表に結びついた。

 これ以降、IBM互換路線をとった1、2位連合の富士通と日立は、大きく業績を伸ばしていった。

 一方、他の2グループは業績の悪化を余儀なくされ、やがて沖電気と東芝は大型コンピュータからの撤退に追い込まれた。三菱電機は起死回生を狙ってあらたな路線に舵を切りなおした。だが、日本電気は苦しみながらも一貫してACOSシリーズを堅持した。

 日本電気のコンピュータも、小型機には実績を残した機種もあった。本筋の大型機ではトランジスターに絞る方針がとられたが、1961(昭和36)年5月に発表された当時としては超小型のNEAC-1201は、パラメトロンの安さを生かした低価格を売り物にしてヒット商品となった。

 コンピュータは小型のものでも数千万円していた当時、国民車的コンピュータを目指して1桁下の価格を実現したこのマシンは、1964(昭和39)年10月に発表された改良型のNEAC-1210と合わせて、予想をはるかに超える870台を売り上げた。

 そしてこのシリーズの延長線上に、1967(昭和42)年2月、日本電気はパラメトロンに代えて回路をすべてIC(集積回路)で構成したNEAC-1240の発表を行った。

 大型汎用機の不振をよそにNEAC-1240もまた好評を博し、改良型も含めてこの機種は1400台を超えるセールスを記録した。

 だが1970年代に入ると、日本電気のコンピュータ事業の中で唯一気を吐いてきた超小型シリーズにも、急速に陰りが見えてきた。

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