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パソコン創世記
日電オフコン「システム100」、マイコン化に先駆ける

「このぶんで行けば黒字が出せる」

富田倫生
2010/1/19

「システム100のLSI化」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 いったん開発を終えてしまえば、集積回路の量産は容易である。生産ラインが整備されれば、それこそ煎餅でも焼くようにつぎつぎと作り続けることができる。ただし1つの集積回路を設計し、開発し終わるまでには、大きな作業時間を投入しなければならない。それゆえかなりの数を使うものでなければ集積回路化には向かないと、小林自身も常識どおりそう考えてきた。たかだか年間で2000台、3000台しか出ないシステム100を全面的にLSI化することには、その点でためらいもあった。ただし細かく見積もっていくと、それでも2割程度生産コストを下げられるめどが立ったことで、半導体セクションにも無理を言い、思い切ってLSI化に踏み切った。だが実際に生産の歯車が回りはじめると、LSI化の効果は目の届かなかったさまざまな領域に及びはじめた。

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 たくさんの部品を集積回路にまとめてしまうのだから当然部品点数が少なくなり、プリント基板の数も減り、組み立て作業が省力化されることは承知のうえだった。電気製品の故障の多くは部品をつなぐはんだ付けの不良によって生じるため、部品の数が減って接点が少なくなれば、信頼性が高まることも予想がついていた。LSI化は省電力化にも効果があるため、電源を小さくできる点もメリットの1つとして数えていた。

 だが、そうしたさまざまなメリットが重なり合って、製造工程がどう変わっていくかには、事前に読みきれない要素がたくさん残されていた。小林自身、もっとも驚いたのは検査工程の作業量の大幅な減少だった。LSI化以降、システム100の販売にはいっそう拍車がかかって、従来の倍の台数がはけはじめた。ところがLSI化が効いて組み立て済みの製品にほとんど不良箇所がなくなってしまった結果、検査要員は逆に半分ですんだ。半分の要員で倍の仕事がこなせる。つまりLSI化は、検査に要する作業量を4分の1に削減していた。

 製造コストを2割削減できるという当初の予測に対し、読みきれなかった要素も加わった好循環によって、システム100のコストはおよそ半分にまで切り下げられた。

 小林はこの成果を前にして、より規模が大きくてより生産台数の少ないACOSシリーズでも、徹底的にLSI化を進める腹を固めた。

 LSI化されたシステム100は、日本電気のコンピュータ事業全体にとっても歴史的な転換のシンボルとして記憶されることになった。

 浜田の日本電気入社に4年を先だつ1955(昭和30)年、渡部和の直訴をきっかけに、日本電気はコンピュータの開発に本格的に着手した。だが、研究費だけを吸い込む初期の地固めの段階を過ぎても、コンピュータ部門は一貫して収益を生み出せなかった。自由化に向けた業界再編以降も、グループを組んだ東芝と提携先のハネウェルとの意見調整に手間取った日本電気は、累積赤字を積み増していった。

 1976(昭和51)年6月、社長の座にあった小林宏治が会長に就任し、副社長を務めていた財務経理畑の田中忠雄にその座を譲るにあたっては、一部に「コンピュータ事業の不振の責任をとった」との観測が流れた。

 浜田の入社時の上司であり、その後も日本電気のコンピュータ事業の方向付けに大きな役割を演じてきた石井善昭は、1977(昭和52)年9月、この部門の戦略策定をになう情報処理企画室の企画室長に就任した。

 その直後、コンピュータ部門の慢性的な赤字体質に業を煮やしていた本社スタッフの1人が、石井の部下に「君たち情報処理部門の人間は廊下の真ん中を歩くな」と言い放った。報告を受けた石井は、府中事業場に集められている情報処理の技術スタッフのうち主任以上の全員に召集をかけ、組合の三役にも出席を求めてこの一件を告げた。

 「日本電気の情処のスタッフが優秀であり、1人ひとり努力してくれていることを私は承知している。そうした人間がこうした暴言を浴びることは社会正義に反すると思う」

 そう切り出した石井は、情報処理部門の開発、生産拠点となっている府中の人員を削減してコストを切り下げる計画を示して協力を求めた。

 「やれるだけのことをすべてやり、実績を突き付けて本社の連中の頭を切り替えさせてやろうじゃないか。みんなには大きな苦労をかけることになるが、ぜひとも頑張ってほしい。組合にもどうか理解してもらいたい」

 石井はそう結んだ。

 以来、1977(昭和52)年から1979年までの3年間で、府中事業場に籍を置く情報処理の技術生産部隊の3分の1近い700名が指名を受け、500名が営業とシステム部門に、残りの200人がマシンの保守や運用の部門にまわされた。コンピュータ製造部門の大幅な人員削減が進められる中、1978年2月には、大型汎用機の開発で日本電気のパートナーとなってきた東芝が、この分野からの撤退表明に追い込まれた。

 全面LSI化によって生まれ変わったシステム100が、オフィスコンピュータ部門単独ながら利益を生み出しはじめたのは、日本電気のコンピュータ事業が瀬戸際まで追い詰められたこの時期だった。

 情報処理小型システム事業部長としてオフィスコンピュータ部門を率いていた渡部和は、黒字への転換のめどを見とどけてからかつてコンピュータ開発を直訴した小林宏治の会長室に資料をたずさえて報告におもむいた。LSI化以降のシステム100の実績と、今後の予測を書き込んだグラフを示し、「このぶんで行けば黒字が出せる」と勢い込んで告げると、小林は一言「累積赤字は?」と切り返した。

 システム100E/Fの発表を終え、Jの開発にめどを付けた1976(昭和51)年6月、浜田俊三は情報処理システム支援本部に移って、ハネウェルから技術を導入する大型機用ソフトウエアの開発を担当することになる。

 そして1978(昭和53)年10月、浜田は石井が率いる情報処理企画室の計画部長に転じ、コンピュータ事業全体の戦略策定にあたる役割についた。

 この時期、コンピュータ事業についに突破口を開いた秘蔵っ子を、日本電気はアメリカ市場にも問おうと考えていた。

 完成品のパーソナルコンピュータがアメリカで続々と誕生しはじめたのは、その矢先だった。

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