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パソコン創世記
英語版アストラで米国小型機市場を目指せ

NECインフォメーションシステムズ

富田倫生
2010/1/20

「『このぶんで行けば黒字が出せる』」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1977(昭和52)年4月、後藤富雄がウェスト・コースト・コンピュータ・フェアー(WCCF)の会場でパーソナルコンピュータの台頭の熱にあおられていたころ、日本電気はアメリカで全額出資の子会社、NECインフォメーションシステムズ(NECIS)をスタートさせた。

 既存のNECアメリカとは別に設立されたNECISは、まずプリンターを米国市場に問うとともに、小規模ビジネス用のマーケットをオフィスコンピュータで掘り起こす可能性の検討に着手した。

 これに先だつ1975(昭和50)年6月、端末装置事業部は国内市場に向けて、大幅なLSI化によって小型化を達成した電子プリンターのシリーズを発表していた。

 当時アメリカのキューム社は、菊の花弁の先に活字を付けたような印字機構を持つ製品で市場を押さえていた。この特許を逃れるために菊の花弁をバドミントンの羽根の形に変えて開発した新シリーズの中位機は、特に好評を博した。

 1978(昭和53)年4月、印字機構の形からバドミントンプリンターと名付けられていたこの製品の新機種が発表された。LSI化を推し進めてこれまで以上の小型化を図るとともに、8080を組み込んで細かなグラフィックスの打ち出しや双方向の印字などさまざまな新しい機能を備えた新機種の発表にあたり、日本電気はこれをスピンライターの名称でアメリカでも販売する方針を明らかにした。発表時点ですでに、400台以上の新型プリンターがNECISを通じて米国市場にサンプル出荷されていた。プリンターとはいうものの、スピンライターにはキーボード付きのタイプも用意されていた。ワードプロセッサーとして、また純然たるプリンターとしても、スピンライターはキュームの製品を追い上げる実績を残していった。

 もう一方でNECISは、オフィスコンピュータをアメリカ市場で成功させるために何をなすべきかの検討を行った。業務を依託したコンサルタント会社は、ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイらの研究の成果を踏まえて、使い勝手を決めるユーザーインターフェイスに新しいアイディアを盛り込むべきだとの結論をまとめてきた。

 業務をこなすためのソフトウエアはこれまで、オフィスコンピュータでは専門的なプログラミング言語の知識を持った人間が、実際に作業にあたるスタッフから仕事の中身の説明を受けて書いてきた。

 だがことアメリカ市場に製品を問うとすれば、むしろメーカー側はユーザーが自分で処理の手順を選んでいけるような環境こそを準備し、個別の対応は彼らに任せるべきだというのが、コンサルタント会社のまとめた結論だった。

 ただしプログラミングに関する知識のないユーザーに手順を組み立ててもらおうとすれば、それなりの準備がメーカー側によってなされていなければならない。その準備のポイントをコンサルタント会社は、対話を意味する「インタラクティブ」と指導を意味する「チュートリアル」という2つのキーワードで表わした。

 オフィスコンピュータ事業を統括する立場にあった渡部和は、指摘された対話と指導の機能を盛り込んだ環境は、アメリカ市場切り込みの鍵となるだけでなく、早晩日本でも重要なメリットとして受け入れられるだろうと考えた。

 こうして渡部和を中心に、ITOS(Interactive Tutorial Operating System)と名付けられたシステム100用の新しい基本ソフトウエアの開発が始まった。石井善昭の指揮のもと、情報処理事業グループの開発体制のスリム化が進められる中で、ITOSの要員にも容赦なく人員削減の波は及んでいた。だが開発チームは、1978(昭和53)年9月に発表したシステム150用の基本ソフトウエアとして、ITOSのリリースにこぎ着けた。そして続く10月には、これまたITOSを搭載したシステム100の3つのモデルが発表された。

 新シリーズの発表にあたって日本電気は、「業務についての知識さえあれば、ややこしいコンピュータの専門知識がなくても誰でも自由に使いこなせることが、コンピュータ、とりわけオフィスコンピュータの理想である」と訴えかけた。こうした理想に近づくために、ITOSには、ディスプレイに表示されるコンピュータからの問いかけに「はい」か「いいえ」で答え、処理の内容や手順を一覧表にしたメニューから選んでいくだけで、プログラムを作ったり処理を行ったりできる環境が盛り込まれていた。

 新シリーズのもう1つの特長が、通信機能の強化だった。DINAと名付けられたネットワーク技術によって、新しいシステム100では日本電気の大型コンピュータとの接続が容易になった。さらにシリーズには、複数の端末を抱えて同時並行で処理を進めていけるマルチタスクの可能なタイプも用意された。

 こうした新しい環境を載せるハードウエアは、μCOM-16の後継機として開発されたμCOM1600を中心に、集積度をより高めたLSIによって構成されていた。

 イメージを一新した日本電気のオフィスコンピュータの出荷は、1979(昭和54)年の初頭から開始された。さらにこの年の3月から、NECISはITOSを搭載した新機種をアストラと名付け、アメリカ市場での販売を開始した。

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