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パソコン創世記
英語版アストラで米国小型機市場を目指せ

シーモア・ルービンスタイン

富田倫生
2010/1/28

「アメリカのパソコンは仕事の道具」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 表計算ソフトとともに普及していったワードプロセッサーも、パーソナルコンピュータに仕事の道具としての顔を与えるうえで、決定的な役割を演じることになった。

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 この分野でその後生まれるさまざまなヒット商品の先駆けとなったのは、1979年の半ばに登場したワードスターだった。

 開発元のマイクロプロ社を設立したシーモア・ルービンスタインは、アルテアを追って生まれたIMSAIの会社を経て、今度はでき上がったマシンで走らせるソフトウエアの会社を起こそうと考えた。

 1934年にニューヨークのブルックリンで生まれたルービンスタインは、7歳で父をなくし、12歳のときにトラックで果物を運ぶ仕事を手伝って以来、働きながら学校に通い続けた。最初に入ったシティ・カレッジ・オブ・ニューヨークの工学部では、授業についていけずに退学を強いられた。その後入りなおしたブルックリンカレッジでは、昼間働きながら心理学を専攻した。ここで卒業を間近に控えながら必修のドイツ語の単位を落とし、どうせ卒業が延びるのならと取ったコンピュータの授業が、その後の彼の歩みに大きな影響を与えることになった。

 大学卒業後、軍需用の電子機器メーカーに入ってプログラミングとハードウエアの知識を養ったルービンスタインは、知人のビル・ミラードに誘われて彼のソフトウエア会社に転職した。この会社は間もなく潰れてしまい、ルービンスタインはシステム開発のコンサルタント業を始め、一時スイスで銀行オンラインシステムの開発に携わっていた。

 1977年の初頭、アメリカに戻ったルービンスタインは、コンピュータキットを売っている店でIMSAIを買い求めた。これを作っている同名の会社を起こしたのが、かつて彼を誘ったミラードだった。ルービンスタインはミラードに連絡をとり、IMSAIのマーケティング部長として働くことになった。

 ここで彼は、ベーシックとは性格の異なるオペレーティングシステム(OS)と呼ばれる基本ソフトをIMSAIに載せるために、コンサルティングを依頼していたグレン・ユーイングを通じて開発元に連絡をとった。

 交渉の相手となったのは、ルービンスタインより10歳ほど若い、ゲアリー・キルドールだった。
 
 アップルII やPET、TRS-80などの完成品は、電源を入れると同時に自動的にベーシックが起動されて命令を受け付ける状態となり、キーボードを叩くと画面上に文字を表示できるように作られていた。

 こうしたマシンで、ベーシックの翻訳プログラムを自動的に立ち上げたり、どのキーが押されたかを判定して画面にその文字を表示するといった基本的な動作は、モニターと総称される小規模な基本ソフトがになっていた。だがユーザーは、こうした基本ソフトの存在をほとんど意識しなかった。

 ところが当初は高嶺の花だったフロッピーディスクをパーソナルコンピュータでも使おうとしはじめたころから、ユーザーは基本ソフトを意識しはじめた。

 フロッピーディスクを使いこなすための機能は、ベーシックに持たせてしまうという選択もあった。アルテアにドライブを付けることになったとき、ビル・ゲイツは、装置の制御機能を付け加えたディスクベーシックという拡張版を書いた。ただしこうした基本的な機能をベーシックという特定の言語に持たせてしまえば、パーソナルコンピュータはどこまで行ってもベーシックマシンとして使わざるをえなくなった。

 一方、大型コンピュータでは、入出力に関する基本的な機能は、OSに集中して持たせる方向に技術が進歩していた。すべての言語やアプリケーションは、このOSの上で働く構造になっていた。

 アルテア以来、わずかなメモリーにようやくベーシックを押し込んで使ってきたパーソナルコンピュータには、まずOSを載せてその上で言語の翻訳プログラムを使うといった大型の常識に付き合っている余裕はなかった。だがしだいにたくさんのメモリーがマシンに組み込まれるようになり、いざフロッピーディスクを使おうといったところまで来ると、パーソナルコンピュータでもOSの利用が現実味を帯びてきた。

 確かにパーソナルコンピュータの言語としては、ベーシックが他を圧倒していた。だがOSを採用したとしても、その上で動くベーシックを用意しておけば、ユーザーは引き続いてこの言語を利用することができる。さらにベーシック以外の言語もOSに対応させておけば、ユーザーはこれも使えるようになる。パーソナルコンピュータを永久にベーシックマシンとして使い続けると決意するのならともかく、いろいろな言語を用い、さまざまな周辺機器を利用して幅広く活用することを考えれば、OSの採用はごく自然な進化の道だった。

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