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パソコン創世記
組み立てキットTK-80 日電パソコンの源流を開く

マイコン入門

富田倫生
2010/2/5

「3人の育て親」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 TK-80を通して覗いた生まれ立てのパーソナルコンピュータの世界は、大内の目には創世の混沌に支配されているように見えた。コンピュータいじり自体を楽しむマニアが存在することは、間違いのない事実だった。だがこの趣味の世界が果たして今後も成長し続けるものか、当初、大内には確信が持てなかった。

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 どこまで突き進んでいくのか、確かめたいと思ったのはむしろ、渡辺たちの胸に湧き上がり、たぎりはじめていた熱の行方だった。

 マイクロコンピュータの需要を掘り起こすには、まず部品化されたコンピュータに対するイメージを幅広い層のエンジニアにつかんでもらう必要がある。技術者がこの新種の部品を理解してくれれば、ここに使おう、あそこに組み込んでみようというアイディアは彼らの側からおのずと湧いてくる。そのためには、理解を助けるための教材が必要との説明を受けて、マイクロコンピュータ販売部の渡辺和也が提案してきたキット式のTK-80には何の迷いもなくゴーサインを出した。

 ところがこのTK-80が、予想もしなかった月1000台のペースで売れはじめた。

 コンピュータを組み立て、プログラムを書き、自分で動かしてみること自体を楽しむマニアがTK-80をかつぎ、TK-80の誕生がまた新しいマニアを生み出すきっかけとなった。

 1977(昭和52)年7月、大内自身が代表して著者となった『マイコン入門』の原稿は、日本電気の関連事業の担当者が分担して執筆にあたった。このうち、第1章を担当した渡辺和也は、いかにもブームの火つけ役らしく、マニアの世界の成長を大きく見積もった原稿を書いてきた。

 「アメリカではマイコンの同好会的なクラブが各地にぞくぞくと誕生し、1976年には3百以上のクラブができ、数万人の人たちがマイコンを楽しんでいるという。クラブのメンバーが集まってお互いに自分の作った作品を発表しあったり、情報交換したり、テーマを決めてプログラムコンテストを行なったり、その活動は大変盛んであるらしい。

 日本でも、半年か1年遅れてアマチュア活動が活発になってきた。

 アマチュア用のマイコン組立キットが市販され始めてから急激に盛んになり、東京秋葉原の電気街に、マイコンの専門サービスセンターやショップが開店して連日大勢の人で賑わっているし、クラブもいくつか誕生した。専門雑誌も出され、関係者の話題になっている。

 数年後にはアマチュア無線の人口(現在は約40万人といわれている)をオーバーするほど、マイコンアマチュアはふえるだろうという人もいる。アマチュア無線とマイコンとの組み合わせで友人のプログラムを無線を通して楽しんだり、モールス符号の自動解読やコールサインの判別、アンテナの調整等への応用も始まっているようだ。

 これからのキミたちはマイコンぐらい知っているのが当たり前で、知らないと恥ずかしいぐらいになるかも知れない」(『マイコン入門』 廣済堂、1977年)
 
 勢い込んだ渡辺たちはさらに、TK-80の延長線上につぎつぎと新しい製品を企画してきた。

 1977(昭和52)年11月には、TK-80に付け加えて使うTK-80BSの発表を行った。BSとはベーシックステーションの略で、定価は12万8000円。キーボードの付いた機能拡張用のこの製品をTK-80に組み合わせれば、ユーザーは教材としてではなく、自分でさまざまに使いこなしてみるためのシステムとしてTK-80を生まれ変わらせることができた。

 TK-80BSには、渡辺のセクションの一員である土岐泰之の書いたベーシックが、ROMに収めた形で持たせてあった。そのため、これまでのようにTK-80を立ち上げるたびに外から読み込んでくるのではなく、電源を入れると同時にベーシックを使いはじめることができた。家庭用のテレビをディスプレイとしてつなぐこともでき、従来のアルファベットに加えてカナ文字やごく一部ながら漢字も表示できた。さまざまなパターンを使って、図形の表示に工夫を凝らすことも可能になった。さらにメモリーの増設も簡単にできるようになった。

 TK-80BS発表の前月までの14カ月で、TK-80の販売台数は1万7000台を超えていた。この勢いにさらに拍車をかけようと、TK-80BSのアナウンスと同時に、機能はそのままに定価を従来の8万8500円から6万7000円へと切り下げたTK-80の廉価版が、TK-80Eの名称で発表された。

 さらに翌1978(昭和53)年10月に発表したコンポBS/80で、渡辺たちは学習教材からパーソナルコンピュータへとさらに大きく踏み出した。

 コンポBSは、組み立て済みの完成品として販売された。

 TK-80BSを新しく作りなおしたCPUボードと組み合わせ、電源なども含めて専用のケースに収めたコンポBSには、もう学習教材の面影はなかった。この新製品には、外部記憶装置としてカセットデッキを本体に組み込んだタイプも用意されていた。定価はデッキ付きを23万8000円、これを持たないものを19万8000円とした。

 コンポBSの発表時点までに、TK-80は廉価版込みで2万6000台、TK-80BSは1万台を売り上げていた。

 渡辺たちの提案が学習教材という原点から離れ、1歩また1歩と個人のためのコンピュータに近づきつつあることは、明らかだった。

 大内は、彼らがマイクロコンピュータの販売という与えられた役割を踏み越えはじめたことを意識していた。それゆえTK-80の関連製品が予想しなかった販売実績を上げはじめてからは、意図的に「これは道楽」と渡辺に釘をさしてきた。

 「TK-80の類の売り上げは、販売目標の勘定外。ノルマはあくまで、本業のマイコンの販売だけで達成せよ」

 渡辺からの報告が好調なTK-80関連製品に及ぶと、大内は繰り返しそう指摘して渡辺を滅入らせた。

 だが道楽を道楽と意識しながら、大内は彼らが道楽に励むことを止めようとはしなかった。予想外の成功が続く中で、大内自身がパーソナルコンピュータの可能性に確信を抱きはじめたからではない。大内が発見したものはむしろ、マイクロコンピュータ販売部の中にたぎりはじめた熱の勢いだった。

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