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パソコン創世記
組み立てキットTK-80 日電パソコンの源流を開く

NECマイコンショップ

富田倫生
2010/2/9

「NECビット・イン」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 コンポBSまでのこれまでの製品はすべて、マイクロコンピュータの学習教材としてのTK-80の流れを汲んでいた。だがコードネームをPCX-01とした新機種では、渡辺たちは明らかにコンピュータに向けて大きく一歩踏み出そうとしていた。

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 マイクロコンピュータも変われば、ベーシックも変わる。台頭しつつあるパーソナルコンピュータ市場を狙い、世界の流れを読んで、PCX-01は面目を一新しようとしていた。

 渡辺の説明によれば、PCX-01にはこれまでの8080に代えて、Z80を採用するという。開発元はザイログ社。インテルで8080を開発したスタッフが抜けて新しい会社を起こし、8080との互換性を保ちながら機能を強化し、処理速度を高めたものがZ80であるという★。日本電気はZ80互換のμPD780という製品を作っており、実機にはこれを載せる。

 ★インテルを飛び出したフェデリコ・ファジンが設立したザイログに移って、Z80の開発にあたったのは、4004と8080の開発に携わった嶋正利である。もともとはビジコンの社員であった嶋がどのような経緯でマイクロコンピュータの開発に取り組み、インテル、続いてザイログにあって初期の技術の方向付けを中心になってになうにいたったかの経緯は、『マイクロコンピュータの誕生 わが青春の4004』(嶋正利著、岩波書店、1987年)に詳しい。さらに『bit』1979年11月号所収の「マイクロコンピュータの誕生 開発者 嶋正利氏に聞く」(嶋正利/西村怒彦/石田晴久)も、当時の空気をよく伝えている。

 そしてベーシックには、マイクロコンピュータ販売部内で開発した従来のものに代えて、マイクロソフトというアメリカのベンチャー企業のものを使う。マイクロソフトのベーシックはアメリカで続々と生まれてきたパーソナルコンピュータに幅広く採用され、業界標準の地位を占めつつあるという。

 アルファベットの大文字と小文字、カナ文字、各種の記号を取り扱えるほか、PCX-01は160×100ドットの解像度で、8色のカラーを表示することができる。

 さらに新しいマシンでは、中心となる本体に加えてさまざまな周辺機器を用意していきたいという。カラーもしくはモノクロの専用ディスプレイ、フロッピーディスクドライブ、プリンター、パソコン通信に使用する音響カプラー。こうした機器を別に用意して、目的に応じてさまざまなシステムの組めるモジュール形式を採用する。

 確かに、規模はごくごく小さい。だがPCX-01は、さまざまな周辺機器を従えたコンピュータシステムを志向していた。渡辺のやりたいことは、個人向けの超小型市場を狙ったコンピュータ事業への着手にほかならなかった。

 TK-80は確かに売れていた。そしてアメリカでは、機能を強化したパーソナルコンピュータが続々と製品化されている。だが日本電気のそれもマイクロコンピュータの販売部門が本格的なパーソナルコンピュータに挑むといって、いったい誰が製品をさばいてくれるのか。1台が数百万円、数千万円のオフィスコンピュータを扱うディーラーが、わずか数十万円の機械を積極的に売りさばいてくれるわけはない。

 秋葉原に続いてビット・インは横浜、名古屋、大阪に開設されていた。加えて、各地の半導体部品の販売会社の中に、NECマイコンショップを名乗ってTK-80を扱ってくれるところが数軒生まれていた。とはいえ、渡辺たちのマシンが頼みうる販売ルートは、これだけではあまりにも細い。この細いルートを頼りに、パーソナルコンピュータ事業を本格化させて成算があるだろうか。

 大内は考え込まざるをえなかった。

 そしてより本質的には、社内にコンピュータの一大専門部隊を抱える日本電気の他のセクションが、きわめて小規模とはいえコンピュータ事業に本格的に手を染めてよいものなのか。

 大内は迷った。

 その大内に、渡辺は繰り返しくらいついてきた。

 「いいものができたといって販売ルートはどうするんだ」

 「製造はどこでやる」

 「本業のマイコン販売が手薄になることはないのか」

 大内が質そうとするすべての問いに、渡辺はあらかじめ答えを用意したうえで、繰り返し事業化の許しを求めた。渡辺との激しいやりとりの中で、彼らの内に湧き上がっている熱のすさまじさを、大内はあらためて痛感させられた。

 マイクロコンピュータの市場は、前年比70パーセントを超える伸び率で成長を続けていた。そして、TK-80は売れ続けていた。

 渡部は1人ではなかった。彼の後ろには後藤たちが控えており、その背後には個人のコンピュータに夢を託そうとするおびただしいマニアたちの姿がほの見えていた。

 大内はしだいに、PCX-01の事業化に傾いていった。

 ただしあらたな販売ルートの開拓には取り組まず、ビット・インと半導体部品の販売店のうち、希望するところだけに流すという従来どおりのルートだけでそっと踏み出すこととした。

 1979(昭和54)年5月、日本電気はPC-8001と名付けた新しい機種の発表に踏み切った。本体価格は、16万8000円で、目標の販売台数は月間2000台。だが予定していた8月から1カ月遅れで出荷を開始してみると、PC-8001は目標を大きく上回るペースで売れはじめた。

 PC-8001の快走を追うように、NECマイコンショップを名乗る販売店の数も、目覚ましい勢いで増えていった。1977(昭和52)年度はわずか1軒、翌年度が3軒だったものが、PC-8001が発売された1979年度は15軒、翌年度は40軒、そして1981年度中には、168軒を数えるにいたった。

 家電量販店もまた、他社製品と併売する形ではあったが、競ってPC-8001を扱ってくれるようになった。

 発売以来2年間で、PC-8001は12万台の出荷を達成した。

 パーソナルコンピュータは、誰の目にも大きな可能性を秘めた魅力的な市場と映りはじめていた。

 PC-8001の事業化にあたって先送りした「パーソナルコンピュータを誰がになうべきか」との問いに、大内が直面させられることになったのは、そんな時期だった。

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