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パソコン創世記
電算本流、パソコンに名乗りを上げる

16ビットパソコンの条件

富田倫生
2010/2/15

「アストラの行く手を阻むもの」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 パーソナルコンピュータを取り巻く空気の基調は、あくまで共棲にあった。

 他者の存在を敵とするよりもむしろたのみとし、他者の力を押しつぶすよりは引き出して味方に付ける方向に舵をとりえた者こそが、この世界では成長することができた。

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 PC-8001の開発にあたって自社で開発したベーシックを捨て、マイクロソフトのものに乗り換える決断を行ったのも、これが業界の標準的な地位を占めつつあるとの認識からだった。

 技術情報を可能な限り公開し、サードパーティーによる関連製品の開発を促していくオープンアーキテクチャーこそ、渡辺はパーソナルコンピュータの魂であると信じた。

 もしも渡辺たちが確固たる開発力を備えたコンピュータの専門グループであれば、なんらかのシステムを作り上げる際には当然、すべての要素を自ら用意しようとしただろう。だが渡辺たちは、充分な開発力を持たないマイクロコンピュータの販売部で、パーソナルコンピュータの卵を育てることになった。その渡辺たちには、この卵を大きく育てようとすれば他力によるほかはなかった。オープンアーキテクチャーをとったことには、その意味では怪我の功名としての一面もあった。

 だが、彼らは誕生期のパーソナルコンピュータを支えた精神の核をとにもかくにもつかみ取り、PC-8001を育て上げた。

 その精神の核を、2つのプランは決定的に取り逃がしていた。

 確かに高機能化した端末も、小型化、低価格化したオフィスコンピュータも競争力を持った製品ではあるだろう。だが、一方はあくまで端末であり、もう一方はあくまでオフィスコンピュータで、パーソナルコンピュータではなかった。

 「これはパーソナルコンピュータにはなっていない。少なくとも、私の知っているパーソナルコンピュータではない」

 渡辺はそう口を切り、「こんな製品をPCシリーズの上位機種として受け入れるわけにはいかない」と畳みかけた。

 16ビット機は事務用をターゲットとして情報処理がになう。

 トップが顔をそろえた会議でそう大枠が定められて以来、渡辺の中で熱をはらみながら鬱積してきた思いに、あくまでこれまでの仕事の流儀から踏み出そうとしない2つのプランが火をつけた。

 8ビットからスタートしたパーソナルコンピュータが早晩16ビット化することは、誰の目にも明らかだった。その技術の明日を、トップの決定は渡辺たちから奪おうとしていた。

 〈だがこれでは、未来を奪われるのは我々にとどまらない〉

 口の乾きが舌をこわばらせるのを意識しながら、渡辺は内心でそうつぶやいた。

 これがあらたな16ビット版となるのなら、日本電気のPCシリーズにもまた明日はないはずだ。

 渡辺が炎のような言葉を投げた瞬間から、室内の空気はゼラチンを溶かし込んだようにこわばりはじめていた。

 「このいずれかをPCシリーズの上位機種として事業化したとしても、とても売れるとは思えない」

 渡辺は、重苦しい空気を切り裂くようにそう断言した。

 「では、あなたの言うパーソナルコンピュータとは何なのか。どうすれば、あなたの考えるパーソナルコンピュータになるのか」

 そう切り返した浜田に、渡辺は16ビット機の備えるべき条件を1つ1つ数えはじめた。

 まず第1に、ベーシック。これに関しては従来機に使ってきたものと互換性を持った、マイクロソフトのベーシックを採用する。ベーシックという言語が使えるというだけでは、充分ではない。同じベーシックといっても、開発主体が異なればそれぞれに差異がある。さらに同じマイクロソフトのベーシックでも、異なったマシンに搭載される場合にはメーカーの注文に応じて機能が拡張されている場合がある。拡張された命令を使って書いたプログラムを他の機種で動かそうとすると、そこが引っかかって動かなくなる。

 すでに発表済みのPC-8001に続いて、渡辺たちは8ビットの上位機種の開発を進めていた。

 そこで新しい16ビット機には、PC-8001とこの上位機種のベーシックに互換性を持つマイクロソフトのものを採用する。そうすることで、従来のユーザーやサードパーティーが書きためてきたソフトウエアを、新しい機種でもそのまま使えるようにする。

 第2にディスプレイやプリンター、フロッピーディスクドライブなどの周辺機器も、これまでPCシリーズで使ってきたものをそのまま利用できるように考慮する。そのためには新16ビット機ではすべての構成要素をセットにした商品構成はとらず、本体は本体、その他の周辺機器は周辺機器と要素をばらばらにしたコンポーネント形式で臨む。そして周辺機器の接続用コネクターには従来どおりのものを採用し、これまで持っていた機器をそのまま活用できるようにしていく。

 第3に、これまで補助記憶装置として使われてきたカセットテープレコーダーも、接続できるようにする。

 そして第4に拡張用スロットの仕様を公開し、サードパーティーによる増設ボードの開発を促す。

 〈要するにこれまでの8ビットの延長でやれということか〉

 渡辺の列挙する条件を走り書きするペンの動きはそのままに、浜田はそう考えた。

 オフィスコンピュータの小型化をさらに推し進め、これをビジネス用パーソナルコンピュータと位置づけようという提案には、かつてシステム100の開発の中心となった浜田自身が深くかかわっていた。製品企画側からは、三田の本社にある情報処理小型システム事業部のスタッフと企画室の浜田。そして開発、製造側からは、かつてシステム100で浜田とコンビを組んでいた、府中のコンピュータ技術本部第2開発部に籍を置く戸坂馨が加わってまとめられたのが、このプランだった。

 彼らにはコンピュータの本家としての自負があり、超小型分野を切り開いて慢性的な赤字に苦しめられていた事業に突破口を開いたとの自信もあった。それゆえオフィスコンピュータのさらに下位に新しい市場が開けるのなら、自分たちの手ごまをよりいっそう小型化してぶつけようと、ごくごく自然にそう考えた。システム100の小型化を推し進めたマシンで、新しい「下から」の流れの機先を制して幅広いビジネス分野を「上から」開いていくシナリオには、充分に勝算があるように思えた。

 だが、まがりなりにもここまで独力で市場を切り開き、パーソナルコンピュータ文化の旗手としてマスコミに遇されもしはじめている渡辺和也は、「8ビットの延長、そしてオープンアーキテクチャーこそが新16ビット機の必須の条件である」と口をきわめて主張した。

 では、どうするのか。

 あくまで従来の路線の延長上に、新16ビット機を置くのか。

 それともパーソナルコンピュータがそうしたものであるというのなら、渡辺の主張を受け入れて思い切った転換に打って出るのか。

 半導体グループが独力で切り開いたPC-8001はそれまで、浜田にとってあくまで「他人の仕事」だった。人の肌のぬくもりが残った下着を身につけ、その人物の明日を奪い取ることへの無意識の拒否反応は、「PC-8001の延長」という選択肢を浜田の脳裏から追いやっていた。だが渡辺本人が望むのなら、この路線をあえて禁じ手とする必要はなかった。

 検討会議から2カ月後の1981(昭和56)年6月、浜田俊三は両案に公平な立場をとるべき情報処理企画室計画部長から、オフィスコンピュータの商品企画と営業支援にあたる、情報処理小型システム事業部事業部長代理へと転じた。

 ともにオープンアーキテクチャーへの転換を迫られた立場の端末グループは、すでに「既定方針どおり進む」との結論を出していた。

 1981(昭和56)年7月、端末装置事業部は開発を進めてきたインテリジェント端末の新機種を、N5200モデル05と名付けて発表した。

 パーソナルコンピュータを名乗る代わり、N5200はパーソナルターミナルと銘打たれていた。

 インテルの8086を使ったN5200は、一体型の筺体に容量1Mバイトの8インチドライブ2台を標準で組み込み、OSには日本電気オリジナルのPTOSを採用していた。画面への表示を高速化するために、日本電気の半導体グループが開発したGDCと名付けられた専用LSIを初めて採用した点は、N5200のスペックの中で光って見えた。価格はRAM48Kバイトの標準構成で79万8000円と従来のN6300の半額以下に設定された。出荷開始は12月からで、3年間に3万台の販売を見込むとされていた。

 だが端末装置事業部が我が道を選び、超小型オフィスコンピュータの開発作業が進んでいく中で、浜田はなお迷い続けていた★。

 ★前出の『技術の壁を突き破れ』は、渡辺和也が注文をつけた経緯を以下のようにまとめている。

 「そういう方針にもとづいてコンセプトの検討がはじまる。まとめ役を担当したのは、「NEACシステム-100」の開発を担当した戸坂馨(東京大学工学部電気工学科、昭和41年入社、執筆当時支配人)、製品計画部の小澤昇(早稲田大学理工学部機械工学科、昭和46年入社、執筆当時パーソナルコンピュータ販売推進本部商品計画部第2製品計画課長)主任を中心とする小人数のチームであった。ところが、マイコン部隊への遠慮もあったせいか、PCの延長というテーマがなかなか出てこない。そんなわけでもあるまいが、4カ月後につくった最初の試作機に、渡辺和也がクレームをつけた。こんなものにPCの名前をつけて出せるかというのである」

 同じ出来事を描いてこれだけニュアンスが変わってくるのだから、実際まあ、面白いもんである。

 N5200をパーソナルターミナル、システム100の小型版をパーソナルコンピュータと位置づけるという情報処理の方針は、8月に開かれたトップの顔をそろえる会議に正式に諮られた。

 この分野をここまで引っ張ってきた現場責任者として会議に臨んだ渡辺和也は、席上、再び明確に反対の意思を表明した。

 IBMがパーソナルコンピュータ市場に乗り出してきたのは、そんな時期だった。

 1981年8月12日、大型コンピュータの巨人はパーソナルコンピュータを略してただPCとだけ名付けた製品を発表した。

 IBMが初めてこの市場に送り出してきたPCは、渡辺の注文をそのまま受け入れたようなマシンだった。

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