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パソコン創世記
早くも揺らぎはじめた3本立てパソコン事業体制

パソコン市場の爆発的な成長

富田倫生
2010/3/2

「マイクロソフトの拒絶」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 IBMのPCが浜田を西のもとに走らせた直後、日本電気はおよそ2年で約12万台を売り上げたPC-8001の上下に新しい2つのシリーズを加え、パーソナルコンピュータのファミリーを形成してラインナップの充実を目指す方針を明らかにした。

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 1981(昭和56)年9月に同時に発表されたこの2つのマシンは、16ビットのビジネスは情報処理、家庭用は新日本電気、そして両者の中間を電子デバイスがになうという新体制に沿っていた。

 だが、あらためて発表予定の広報資料を前にした大内の胸の奥に、新機種は細い懸念の雨を降らせていた。

 何かが足りなかったのではない。

 問題は過剰だった。

 当初PC-8001を超える本格的な8ビット機として想定された新日本電気のマシンは、電子デバイスとの長い押し合いを経て大幅にスケールダウンし、低価格と手軽さを売り物にした入門機と位置づけられた。

 初めてパーソナルコンピュータに触れる層を意識したPC-6001は、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームなり学習物なりのアプリケーションを使いはじめられるようになっていた。開発グループによる事前の働きかけによって、出荷までに50種類のPC-6001用のプログラムがサードパーティーから発売され、近々に200種類まで拡大されるとアナウンスされた。PC-6001はマイクロソフトのベーシックを採用していたものの、PC-8001に採用されたN-BASICとは一部異なった点があり、従来のプログラムをそのまま使うことはできなかった。

 もう一方、電子デバイス部隊から発表されたPC-8801は、明確に仕事のマシンを志向していた。

 開発にあたった後藤をはじめとするスタッフは、解像度をPC-8001のレベルから大幅に高め、形の複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネスの需要に応えようとした。

 富士通はすでにこの年の4月、漢字ROMをオプションで追加できる初めての漢字パーソナルコンピュータ、FM8を発表していた。

 このFM8を追うために短期間での開発を余儀なくされたPC-8801も、漢字ROMを標準で持つところまでは踏み切れなかった。ただしオプションでROMを追加すれば、白黒の640×400ドットの画面に800字の漢字を表示することができた。あらたに用意されたプリンターの側にもROMを組み込めば、漢字仮名交じりの文書を打ち出すこともできるようになった。

 レベルアップしたハードウエアの性能を生かすべく、PC-8801には大幅に機能拡張されたマイクロソフト製のN88-BASICが搭載された。加えて従来のN-BASICもあわせて持たせることで、これまでPC-8001で使ってきたプログラムもそのまま利用できるよう配慮されていた。

 「PC-8800シリーズは大容量のデータ処理機能や日本語処理機能を有した高級機で、PC-8000シリーズの上位機種として、近年需要の拡大が著しいOAなどのビジネス用途向けに開発された製品であります」

 大内は広報資料に謳われたPC-8801の開発意図を、もう一度視線で追った。

 確かにPC-8801は8ビット機ではあった。だがはっきりとビジネスに焦点を合わせたPC-8801の性能は、かなりの部分で発表になったばかりのIBMの16ビット機、PCを上回っていた。

 まったく新しい市場を独力で切り開いた電子デバイスの成功があって、新日本電気と情報処理がパーソナルコンピュータへ名乗りを上げてくる中で、グループ内での直接の衝突だけは避けようと、日本電気は大内の主導でビジネスとホームを両極に置いた3つの路線を敷いた。だが混沌としたホビイの海に浮かび上がったと思うと、見る見るせり出して大陸への成長を予感させるビジネスの島に、中位機をになう電子デバイス部隊は当然すぎるほど当然にも焦点を当ててきた。

 確かに8ビットという枠の内にはあった。

 だが彼らは、早くも与えられた枠組みの天井を叩いていた。

 PC-8801は大内の目に、逸脱の一歩手前まで迫っているように映った。

 ここまで2人3脚でパーソナルコンピュータを切り開いてきた渡辺和也が、天井を突き破って16ビットに乗り出し、ビジネス市場開拓の先頭に立ちたいと願っていることを、大内は痛いほど承知していた。彼らの部隊により多くの人材を投入し、組織を強化していけば、それだけの見返りをもたらす市場であることも間違いはなかった。

 だが大内は、産み落とした子を最後まで育てたいという渡辺の思いを彼の言動に感じとるたびに、副社長という自らの役割を思って精神のバランスを保った。

 1980(昭和55)年6月、日本電気本流の通信畑からのし上がった関本忠弘が、田中忠雄に代わって社長の座についた。

 1948(昭和23)年に東京大学理学部物理学科を卒業し、入社後は衛星通信の研究に携わった関本は、1964年からアメリカの衛星通信サービス会社コムサットに出向した。ここでアメリカ人相手に発揮したプロジェクトの運営手腕を小林宏治社長に買われ、1972年に伝送通信事業部長に就任。1974年に取締役、1978年に常務、1979年に専務取締役と階段をかけ上ってトップを極めた。

 これまで代表権を持った会長の小林宏治が経営全般と人事の最終的な決定権を握り、社長の田中忠雄はもっぱら社内の管理に責任を負っていたのに対し、日本電気には会長と充分渡り合うだけの強烈な個性と手腕を備えた社長が誕生することになった。

 そして関本のトップ就任と同時に、社長争いの唯一のライバルと目されていた大内淳義は副社長となった。小林宏治会長のもと、半導体担当役員の大内淳義を司令官としていただき、渡辺和也を実行部隊長、後藤富雄を実戦部隊のリーダーとして突き進んできたパーソナルコンピュータの事業体制を、トップの異動が揺るがせていた。

 渡辺の部隊をパーソナルコンピュータの主役として強化することで、他社との競争に勝ち抜いていくことは可能だろう。だが副社長として、日本電気全体のバランスに目を配る立場についた大内には、2つ目の情報処理セクションを作って組織を歪ませるような選択はとりえなかった。

 それゆえ「16ビットのビジネスは情報処理が担当する」として渡辺たちの頭を押さえ、バランスをとろうと試みた。だがあらためてPC-8801のスペックを前にしたとき、大内は自ら定めた枠組みを明日にでも再度見直さざるをえなくなるだろうことを痛感させられた。

 パーソナルコンピュータは、市場規模においてもその性能に関しても爆発的な成長を遂げつつあった。

 その奔馬の首に縄をかけ、狭い柵のうちに押しとどめることなどできはしないのだ。

 かりそめに設けた枠は、早くも噴き出してくる圧力を受けて揺らぎはじめていた。

 では、どうするのか。

 パーソナルコンピュータを、果たして誰に託すべきなのか。

 独立した遊撃隊が育てたパーソナルコンピュータを、コンピュータ事業全体の枠の中にどう取り込み、包括的な企業戦略の中でどう位置づけるのか。大内は再び、そしてより根底的な決断を下さざるをえないことを覚悟した。

 PCを大成功させたIBMがのちに直面することになる課題に、大内は彼らに一歩先んじて向かい合っていた。

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