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パソコン創世記
パソコン革命の寵児 西和彦の誕生

新雑誌 「I/O」

富田倫生
2010/3/5

「パソコン革命の寵児」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 そして受験勉強から解放された西の目の前に、マイクロコンピュータが飛び出してきた。

 1975(昭和50)年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』で発表されて以来、アメリカではキット式の超低価格コンピュータ、アルテアの人気が沸騰していた。かつてトランジスター電卓に魅せられて以来、エレクトロニクスの虜となっていた西は、アメリカから雑誌を取り寄せては関係する記事を読みあさった。秋葉原のショップには以前から、はんだごてを握って手作りを楽しむエレクトロニクスマニア向けに、ゲームや時計などの回路をIC化した部品を売っている店が何軒かあった。そんなショップの店先で、キット式のコンピュータが話題を集めはじめていた。

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 さらにこの年には、中古コンピュータ専門店というまったく新しいタイプのショップが生まれた。

 豊富な資金力を背景に、レンタル制をとるIBMに対抗するために、日本のコンピュータメーカー7社は1961(昭和36)年にレンタル代行機関、日本電子計算機株式会社(JECC)を設立した。

 レンタル制を採用すれば導入のための初期費用を抑えて、コンピュータの需要を喚起できる。だがそのためには、マシンがいつ返却されるかもしれないというリスクをメーカーが負担しなければならなくなる。そこでレンタル代行機関を設けてここが国産メーカーからマシンを買い上げ、償却期間をIBMより長く設定してレンタル料金を抑えるとともに、返却のリスクを引き受けて普及促進を図ることが目指された。

 さらに1970(昭和45)年ごろからは、従来の大型機に比べて大幅に安いミニコンピュータの台頭を背景に、専門の業者がマシンを買い入れて導入先に貸し出すリースが普及しはじめた。こうした制度の定着によって、低価格のコンピュータの導入にはさらに拍車がかかった。と同時に、一般的に設定された償却期間の5年が過ぎると、新しいマシンに置き換えられた機種がリース業者の手元に戻りはじめた。こうしたいわゆるリースバックのミニコンピュータやテレタイプなどの周辺機器が安く払い下げられるようになり、コンピュータの中古市場が1975(昭和50)年前後から形成されはじめた。

 東京、新宿にはアスター・インターナショナル、横浜の保土ヶ谷にはソーゴーという先駆けとなる専門業者が生まれ、エレクトロニクスのマニアたちの前に、安いものなら数十万円で中古のコンピュータが並びはじめた。さらにマイクロコンピュータを使ったキット式のシステムなら、キーボードもディスプレイ、プリンターもない丸裸の状態ながら値段はさらに安かった。脱丸裸を目指すなら、テレタイプの中古品もあった。西が大学に入った1975(昭和50)年前後には、コンピュータの普及と半導体技術の成果の両側から、趣味のコンピュータいじりを可能にする土壌が耕されはじめていた。

 西は資料室と化した下宿部屋に、今度はさまざまな機械まで持ち込み、築40年の家の床は、重みに耐えかねて沈みはじめた。

 西の運び込んだ荷物に下宿の床が悲鳴を上げはじめた当時、大家の息子の郡司明郎は、ソフトハウスのコンピュータ・アプリケーションズ(CAC)で、金融、証券システムの開発にあたっていた。1947(昭和22)年生まれで西より9つ上となる郡司は、千葉工業大学を卒業後、プログラマーの道を選んでいた。

 コンピュータという共通の話題が接点となって、西と郡司はしだいに言葉を交わすようになった。

 本とコンピュータの部品で埋めつくされた部屋で、ときに西はわけの分からない電子機器作りに取り組んでいることがあった。聞けばアルバイトで製作を頼まれたのだという。しばらくして西が「もうかったで」と1万円札を20数枚並べるのを見せられたときの印象は、郡司の記憶にあざやかに焼き付いた。大型機用のソフトウエア開発にあたっていた郡司の視野の外で、マイクロコンピュータを核にして何かが揺らぎはじめていた。

 散らかり放題散らかった部屋で西がいじくり回していたのは、地殻変動の起爆剤だった。

 西と出会った翌年の1976(昭和51)年6月、郡司はCACをやめた。退職に、何かはっきりとした目論見があったわけではなかった。ただ1960年代後半に大学生活を送り、職を得て働きはじめた70年代は郡司にとって退屈な時代だった。このままここでこうして齢を重ねていくのが、郡司にはしだいにうとましく思えてきた。辞表を出してから引き続いてCACの仕事を手伝うこともあったが、大半の時間はパチンコ屋で過ごした。だが数週間が過ぎると、怠惰な生活にも嫌気がさし、アメリカ旅行の計画を立てて1カ月をかけて回ってきた。

 旅行から戻ると、待ち受けていたように西が声をかけてきた。マイクロコンピュータの雑誌を作りたい。ついては郡司にも手伝ってもらえないか、という。ハードウエアに特に関心はなかったが、ソフトウエアならお手のものだった。雑誌作りという新しい体験にも興味があった。それにどうせ、定職はないのだ。

 雑誌作りの根城は、西が新しく代々木に借りたマンションの一室に置かれた。『I/O』と名付けた新雑誌の編集長には、北海道大学出身で編集の経験のある星正明があたることになった。

 この『I/O』で、当時、電気通信大学の学生だった塚本慶一郎は、西と並んでペンネームを3つ4つと使い分けて記事を書きまくった。

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