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パソコン創世記
パソコン革命の寵児 西和彦の誕生

アスキー出版設立

富田倫生
2010/3/10

「西の違和感」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 満員電車並みの混雑となった会場では、アップルII とPETというはっきりと個人用のコンピュータに狙いを絞ったマシンが、大変な人気を博していた。さらにアルテアやIMSAI用に会場で売られている増設メモリーも、8Kバイトや16Kバイトといった大容量のものが主役となっており、果ては1枚の増設ボードで64Kバイトという度肝を抜かれるような代物まで登場していた。本体にもともと付いてくる256バイト、512バイトといったレベルのメモリーで使うのは、すでにここでは常識はずれとなっていた。

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 こうしたメモリーの大容量化を促進していたのは、ベーシックだった。アメリカのユーザーたちはすでに、ごく一般的にベーシックを載せてプログラミングの環境を整えはじめていた。ベーシック自体の規模にもよるが、言語を載せるためにはそれだけで2Kバイトから8Kバイト程度のメモリーを余分に用意しておかなければならない。そのためには、メモリーの増設が不可欠だった。

 西は服装も姿形もてんでばらばらな老若男女が集う会場の熱気の中で、あらためて趣味のおもちゃとしてではなく、人間の可能性を拡大する知恵の道具としてのパーソナルコンピュータに確信を強くした。

 目星を付けていた人物やフェアーで知り会った関係者を訪ね、用意した軍資金を使い切って豪勢な旅を終えた西は、5月に日本に戻った。だが会社の運営に関する星への不信感は根強く、星もまた果たすべき役割を放棄して勝手にビジネスへの渡りをつけてくる、西の言葉に耳をかそうとはしなかった。株式の名義人は星の関係者に押さえられていたことから、西は『I/O』と決別する覚悟を決めた。

 仲間のうちから郡司と塚本に声をかけて、ホビイとは一線を画した新しい雑誌の創刊を目指そうと動きはじめた。これまでも『I/O』は月刊で出してきた。大半の記事を自分たちで書いてきたのだから新雑誌も月末までには出そうと、雑誌編集者が聞けばあきれ返りそうな無茶なスケジュールを立てた。

 1977(昭和52)年5月、西、郡司、塚本の3人は、資本金300万円でアスキー出版を設立した。港区の南青山に借りたワンルームマンションが、新しいオフィスとなった。

 『ASCII』と名付けた新雑誌は、当初の目論見からは1カ月遅れたものの、6月には早くも発行にこぎ着けた。

 創刊号の巻頭言をまとめようと原稿用紙に向かった西は、まず「ホビーとの訣別」というタイトルでます目を埋めた。『I/O』の予想外の成功がもたらした胸の高鳴りや星との石を噛むような確執、そしてWCCFの熱気の中で再確認した個人のためのコンピュータへの確信が、西の胸の内につぎつぎとよみがえってきた。

 「ここにホビーではない新しい分野『コンピュータの個人使用・パーソナル・コンピューティング』が出現した」

 あらためてそう書き記したとき、西は暗雲を払って差し込んできた陽をからだ中で受けとめたような、爽快な高ぶりを覚えた。

 「マイクロコンピュータは家電製品にも積極的に使われて、産業としての地位を確立しつつありますが、今まで大型が担ってきた計算とか処理などの機能を備えたコンピュータが個人の手のとどく商品となったら、それをどのように分類したらいいのでしょうか。

 電卓の延長ではないと考えます。家庭や日常生活の中に入ったコンピュータ、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミュニケーションの一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送り付けます。ラジオは声を音を、コンピュータはそれを決して一方的に処理しません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわりあうことができるもの――これが次の世代の人々がもっとも求める解答であると思うのです」(『ASCII』1977年6月号「編集室から」)

 「マイクロコンピュータ総合誌」と銘打った『ASCII』の創刊号は、5000部を刷った。新会社の当座の運転資金として西が家から引き出してきた3000万円で最低限の体制を整え、売り上げ分を回収できない3号目までを賄おうと考えて、1号あたりの経費を設定してはじき出したのがこの部数だった。『I/O』の創刊時と同様、今回も秋葉原を中心に持ち込みで書店やショップにまいていった。

 この創刊号が、見事に売れた。

 3号目からは刷り部数を8000に増やし、その後も部数は順調に伸びていった。

 社長となって財務を引き受けた郡司は、『ASCII』の販売も担当した。自分の車に大量の雑誌を積み込みマフラーをこすりながら郡司は配本に走りまわった。

 だが1978(昭和53)年が明けて『ASCII』の刊行が軌道に乗りはじめると、西の腹に棲む変化と成長を求める虫が早くも騒ぎはじめた。

 アメリカでは前年、アップルII 、PET、TRS-80と新世代のパーソナルコンピュータが続々と誕生していた。パーソナルコンピューティングの新しいページを開く主体は、ホビイストからメーカーの手に移っていた。

 西はいつもパーソナルコンピュータの最先端にいたかった。

 ではアスキーで新しいマシンを作るのか。

 西の豊かな家庭は、これまで彼が思いのままに発想を遊ばせる自由を与えてくれた。『ASCII』の創刊にあたっては、ベンチャーキャピタリストの役割を、西家がになってくれた。

 もしも西のような人物がアメリカに生まれていたなら、彼はおそらくこのタイミングでマシンの構想を練り、キーとなる開発スタッフを確保してベンチャーキャピタリストを訪ねていただろう。だが日本を活動の場とする西には、その術がなかった。ハードウエアの開発、生産となると、ようやく利益が出はじめたばかりのアスキー出版には手が出せず、さすがに今回は実家を頼るわけにもいかなかった。

 だが西には目論見があった。

 マイクロソフトのベーシックを握れば、少なくとも日本のパーソナルコンピュータの開発をリードできる可能性があると西は考えた。

 ベーシックをマイクロコンピュータを利用したシステムに載せようと試みたのは、マイクロソフトだけではなかった。

 雑誌の呼びかけに応えて、数多くのホビイストが、ごく小さな規模のベーシックを自分のマシンに載せようと試みた。アルテアを追って登場したIMSAIは、ゲアリー・キルドールに海軍大学院で教えを受けた、ゴードン・ユーバンクスの開発したベーシックを載せていた。拡張されてCBASICと名付けられたユーバンクスの言語もまた、アメリカでは広く使われるようになった。日本電気のTK-80BSには、マイクロコンピュータ販売部の土岐泰之が書いたベーシックが使われていた。少なくともコンピュータ部門を抱えている企業なら、書こうと思えば独自のベーシックを書くことはできた。

 だがアルテアへの搭載で一歩先駆けたマイクロソフトのベーシックは、ビル・ゲイツが怒り心頭に発したホビイストたちのコピーもあずかって、広く普及していった。業界の標準にもっとも近かったのは、マイクロソフトのベーシックだった。

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