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パソコン創世記
〈もう1人の西〉を生んだ古川享のWCCF体験

古川享

富田倫生
2010/3/12

「西和彦、ビル・ゲイツに会う」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 「おまえなあ、大きくジャンプしようというときに両手に荷物を持ってたら高く跳び上がれへんやろ」

 長髪をかきながら、西が諭すような口ぶりで言った。

 「パーソナルコンピュータに賭けたら、5年後、10年後にきっとお前は1億、10億の商売をするようになるよ。そのお前がここで月に10万、20万もらったら、出した連中はきっとあとになって『あのときの分はまだ返してもらってない』と言うに決まってる」

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 視線を落としながら西和彦の言葉を耳で追っていた古川享は、内心で〈なるほど〉と合いの手を入れた。

 「だからこんなとこで荷物を抱え込んだらあかんよ。身軽のまま、ぐんと縮こまってから思い切って跳ぶんや」

 2つ年下にもかかわらず兄のような口ぶりでそう説教をくれる西の言葉は、古川の耳にむしろ新鮮に響いた。

 「親は生きてるんか」

 西の突然の問いに、出会ったときからの客相手のていねいな調子を崩さず、「ええ」と古川が答えた。

 「そしたら遺産を先渡ししてもらう交渉をして、紐付きにならない親の金でアメリカに行ったほうが絶対いいって」

 繰り返し2度うなずきながら、古川はわずか2つ違いの西と自分とのあいだに、世代のギャップが間違いなく存在していることを意識していた。

 自分たちの世代にとってプラスのシンボルだった自立という価値に照らせば、むしろ積極的に「親を頼れ」とする西のアドバイスは後退以外の何物でもなかった。だが自分と同じ大学生という身分ながら『I/O』を創刊し、仲間たちと喧嘩別れしたかと思うと、今度は『ASCII』を旗揚げした西にとっては、頼れるものを頼らずして立ち止まることこそがむしろ愚行なのだろう。

 古川はテーブルに落としていた視線を上げて、眼鏡の向こうにのぞく西の細い目を受けとめた。

 彼の網膜に像を結んだ西和彦には、後光がさしていた。

 古川にとって西は、圧倒されるような波動と、しびれるような魅力を備えたカリスマだった。

 パーソナルコンピュータの変革の波の最先端に乗り続ける。

 西にとってはそのことだけが至上の価値であり、それ以外はすべて小事なのだと古川はあらためて気付かされた。

 「だからそんな金もらうのやめとき」

 そう西に念を押される前に、古川は申し入れを断って両親にアメリカ行きの資金をねだる気持ちに傾いていた。

 西はこの流儀で間違いなく跳んでいた。その西が「この流儀で跳べ」と誘うのなら、1度は賭けてみてもよいと古川は考えた。

 古川にとってそのとき、パーソナルコンピュータと西和彦は、胸の奥に残る1970年を前後する時期の昂揚感もかすむほど輝いて見えた。

 銀行員を父に、1954(昭和29)年、東京で生まれた古川享は、安田講堂の攻防戦を経て東京大学の入学試験が中止となった1969年の4月、麻布中学から高校へと進んだ。

 新しい歌があり、新しい映画があり、決然と異議を申し立てることが誠実の証だった時代の空気を、古川は胸いっぱいに吸い込んだ少年だった。

 麻布高校2年生のとき、7人の仲間とともに校長代行の辞任要求運動の先頭に立った。東大法学部に進んで司法試験を目指していた兄のようにエリートコースを進んでほしいとの両親の願いとは、このときを境に決別することになった。仲間たちとの闘いの日々は熱い宝石のような思い出として残ったが、学園紛争の火が消え、退屈な1970年代に放り出されると羅針盤を失ったような日々が待っていた。だが3年間浪人して、1975(昭和50)年に和光大学の人間関係学科に潜り込んだころ、古川が趣味としていたエレクトロニクスの世界に異変が起ころうとしていた。

 それまではんだごてを握ってはデジタル時計やデジタルおもちゃの組み立てを楽しんできた古川にとって、マイクロコンピュータを使って個人用のコンピュータシステムを作るアルテア誕生のニュースは衝撃的だった。足しげく通っていた秋葉原には、アメリカの動きに対応した新しいタイプのショップが生まれはじめていた。

 1976(昭和51)年にリースバックのコンピュータや周辺機器のショップとして生まれたアスター・インターナショナルは、キット式のマイクロコンピュータシステムにも敏感に反応して、アメリカからの情報の中継基地となっていた。同じくリースバックの機器のショップとして生まれた横浜のバイトショップ・ソーゴー、そしてムーンベース、コンピュータラブといった秋葉原のショップが、アルテアや続いて登場してきたIMSAI、KIM-1などを並べ、雑誌類を取りそろえてマイコンショップの走りとなった。

 新宿と秋葉原に店舗を構えていたアスター・インターナショナルの双方の店を、古川は2日とおかず交互に訪れた。ここで仕入れた雑誌の記事をもとに、インテルに続いてモトローラ社が1974(昭和49)年に発表した6800や、モステクノロジー社が1975年に開発した6502★といったマイクロコンピュータを使ってシステムの手作りに挑戦してみた。

 ★モトローラの6800とモステクノロジーの6502はともに、自らを「パーソナルコンピュータの父」と称するチャック・ペドルによって開発された。

 1937年に生まれ、メイン大学で無線工学を学んだペドルは、ゼネラルエレクトリックでコンピュータに携わっていたが、同社の電算機事業からの撤退に伴って1970年に解雇された。コンピュータを使ったキャッシュレジスターの会社の設立を手始めに何度か独立を試みたものの、成功にはいたらなかったが、ペドルはモトローラで6800を設計するという仕事を成し遂げた。チャンス到来と腹を決めたペドルはモトローラを去ってモステクノロジーを設立し、6800を改良した6502を開発して、25ドルというきわめて安い価格で売り出した。アップルのスティーブ・ウォズニアックは、当初6800で自分の手作りマシンを設計していたが、6502の安さにたまげてこちらに乗り換えた。6502を発表したペドルはこれを用いた組み立てキット式のKIM-1を売り出し、続いてコモドール社からPETとして発表されるマシンの開発に取り組んだ。

 当初PETのプロジェクトにはタンディもかんでおり、ペドルは1976年1月にPETのプロトタイプを同社にデモしたことを指して、自分こそパーソナルコンピュータを初めて作り上げた「父」であると主張している。1976年10月、ペドルはモステクノロジーをコモドールに売却し、PETは同社から発売されることになった。

 こうした経緯があって6502はアップルI とII 、PETなどに使われ、任天堂のファミコンに採用されて大増殖を遂げた。

 さらにさんざん通い詰めた挙げ句、古川はアスター・インターナショナルでアルバイトを始めることになった。

 米軍基地にトラックでテレタイプを引き取りに行き、3000円で仕入れたものを磨き上げて30万円の値をつけて並べておくとこれが見事に売れていく。電源やフロッピーディスクドライブ、電動タイプライターなどの周辺機器が、自分のシステムを強化したいマニアにどんどん流れていった。

 そんなアスター・インターナショナルの上顧客の1人に、早稲田大学の学生であるという西和彦がいた。

 西の金の使いっぷりと、アメリカの雑誌を定期購読して仕入れている情報の新しさは、いかにも目に付いた。2人はすぐに、西が店を訪れるたびに話し込んでは新しいねたを交換する間柄となった。

 その西は『I/O』を創刊したかと思うとすぐに、軌道に乗りかけた雑誌を捨てて仲間たちと別の出版社を設立し、今度は明確にパーソナルコンピュータに狙いを絞った『ASCII』を出しはじめた。しかも雑誌の発行で多忙をきわめているはずの西は、繰り返しアメリカに出かけてはショーを覗き、古川も名前だけはよく聞いているインテルやIMSAIなど関連の企業を訪ねていた。

 時代の風を背中に受けて疾走する西和彦は、古川の目に光り輝いて見えた。

 1978(昭和53)年2月、古川は2度目の開催となるWCCFを覗くために、初めてアメリカに飛んだ。

 まず降り立ったロサンゼルスで4日間を過ごしたが、新聞が大きく報じるほどのめずらしい連日の雨続きで、「カリフォルニアの青い空」がさっぱり拝めないのには肩透かしを食った。

 おまけに案の定、英語も通じない。

 「私の家が大雨で流されてしまった」と嘆いているらしいTシャツ屋のおばさんを慰めようとすると、「ごめんね。私、日本語はわからないの」と謝られた。「自信がないものだから、小声でぼそぼそしゃべるのがまずいのではないか。開き直って大声でわめこう」と腹をくくってからは、ようやく少し話が通じはじめた。

 ロサンゼルスのローカル空港からバスにでも乗る感覚でサンノゼに飛び、会場のコンベンションセンターを訪ねると、そこにはもっと大きな衝撃が古川を待ち受けていた。

 会場にあふれる参加者の多くがカジュアルなシャツにジーパン姿で、大人から子供までじつに年齢層が広いのに、古川はまず驚かされた。小さな子供の手を引いた若いカップルもいて、一色に染まった日本の秋葉原族とは対照的に、性別や年齢を問わないじつに幅広い人たちがパーソナルコンピュータを取り巻いているアメリカの事情が見て取れた。

 今回のフェアーの目玉となっているのはPETとTRS-80だったが、それ以外にもさまざまなアイディアを凝らした連中がブースを出している。キット式システムや自作システム用のケースを専門に並べているところがあれば、PETやKIM-1のバスをこれまで広く普及してきたアルテアのS-100バスに改造するキットを売っている連中もいた。

 ソフトウエア絡みはもっと多種多様で、中には15、6歳としか思えない子供が紙テープを広げていたりする。声をかけてみると、少年は「僕の父さんが我が社の会長だ」といばって答える。コンピュータにテキストを読ませるスピーチシンセサイザーや、キーを押すたびに声で操作が確認できる盲人用の電卓といった製品には、マイクロコンピュータの巻き起こした変革の波が健常者のみならず障碍者まで巻き込んでいることを印象づけられ、強い感銘を受けた。

 インテルの8080やザイログのZ80といった主流のマイクロコンピュータではなく、モトローラの6800やこれを拡張した6502といった反主流派に思い入れの強かった古川にとって、80系1色の会場で6502のプログラムを譲り合おうというブースを見つけたときは、まだ見ぬ同志に出会ったような胸の高鳴りを覚えた。

 「東京からやってきた6502のファンだ」と自己紹介すると、ブースにたむろしている連中に大いに歓待を受けた。

 並べられたプログラムの中で特に興味を引きつけられたのは、6502用に移植されたフォーカルと名付けられた言語だった。もともとはディジタルイクイップメント(DEC)によってミニコンピュータ用に開発されたというフォーカルは、ベーシックに似た構造を持ち、科学技術計算に適した機能を豊富に備えていた。このフォーカルと、これで書かれたゲーム類をまるごと買い求めた古川は、売り手に「このプログラムを日本で売ってよいか」とたずねてみた。

 「いろいろな人に使ってもらえるのならけっこうだ。日本国内に限ってということだったら売ってもらってかまわない」

 そう許可を得て、古川はあらためて革命の本場であるアメリカに直接乗り込むことの重みを思い知らされた。

 本場にはさまざまなソフトウエアやハードウエアが、宝の山のようにあふれ返っていた。そしてアメリカと日本を結ぶパイプ役となることは、けっして難しい話ではないのだ。

 古川は西が繰り返しアメリカを訪れる理由を、このとき初めて実感することができた。

 フェアーをしらみつぶしに歩いて堪能しつくしてからは、コンピュータショップめぐりにいそしんだ。日本から製品をメールオーダーする方法も確かめてきた。大荷物を抱えて日本に帰り着いたとき、古川の胸にはやってみたいさまざまなビジネスのプランが湧き出していた。ショップのアルバイト学生だった古川を、WCCFは事業家の卵に変身させていた。

 羽田空港に降り立ったのは、もう1人の西和彦だった。

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