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パソコン創世記
〈もう1人の西〉を生んだ古川享のWCCF体験

アスキー出版、マイクロソフトと提携

富田倫生
2010/3/15

「古川享」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 時差も抜けきらないうちにアスキー出版を訪ね、古川はWCCFのレポート記事を売り込んだ。1978(昭和53)年4月号の『ASCII』に思い出の写真とともに掲載された記事は、変革の波を直接背に受ける手応えを古川に感じさせた。

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 「古川享」の署名の文字が、誌面から浮き上がって見えた。

 WCCFのレポートがきっかけとなって編集部にコネクションを持った古川は、『ASCII』に連続して原稿を寄せるようになった。

 さらにアメリカ行きは、ショップにおける古川の位置も微妙に変化させた。本場のソフトウエア、ハードウエアに関する新しい情報をいち早くつかみ、可能性のあるものを日本に導入することは、ショップにとってビジネスの成否の鍵を握っていた。アメリカで新しい動きに目を配り、製品の買い付けにあたる人材は、強力な武器だった。ましてその人物の身分が学生で、ギャランティーなりコンサルタント料なりを安くすませられるとなれば、いっそう好都合だった。6502用のソフトウエアを日本で売ってもよいという話を取り付けてきた古川は、アメリカ駐在スタッフの絶好の候補となった。

 一度目の訪米で本場の熱気に触れ、日米のパイプ役となるビジネスの可能性に目を開かれるとともにライター稼業に首を突っ込んだ古川にとっても、アメリカで暮らすことは魅力的な選択肢だった。『ASCII』にはアメリカの雑誌で仕入れたねたを中心にパーソナルコンピュータの最新動向をまとめていたが、本拠地を移せばより新鮮な情報を直接つかみ、水滴をまとった桃のようなみずみずしい記事が書けるに違いないと思えた。可能性のある製品を自らの目で選び取って日本に送り込む仕事にも、大いに魅力があった。

 アルバイト先のアスター・インターナショナルをはじめ、つごう3つのショップから在米のコンサルタントとなってくれれば月10万円程度支払ってもよいという提示があった。誰の力を頼るわけでもなく、自力でアメリカ行きの費用を確保して大好きなパーソナルコンピュータの情報を売り物に気ままに暮らすことは、古川にとってじつに魅力的だった。

 西和彦が話を聞き付けて「跳びたいのなら余計な荷物を背負い込むな」と声をかけてきたのは、古川が具体的な渡米スケジュールを練りはじめた時期だった。

 西は古川に、ショップのコンサルタントとして小さくまとまってほしくなかった。もちろん、船出したばかりのアスキー出版を脅かすライバルとなってもらっても困る。パーソナルコンピュータに対する期待と確信で胸を膨らませるだけ膨らませた若い人材は、自らの手元にこそ集めたかった。雑誌社としてスタートさせたアスキーを、西は出版の枠の中に閉じ込めておくつもりはなかった。新しいビジネスを開拓し、アスキーを変化させながら育て上げていくためには、第2、第3の西和彦、言ってみればパーソナルコンピュータの神童が必要だった。

 アメリカ行きの費用を親に頼る道を選んだ古川は、1978(昭和53)年7月に留学という形をとって渡米し、まずカリフォルニア大学のロサンゼルス校で語学の資格試験向けの研修を受けはじめた。西はアメリカ出張の機会をとらえては、3度、ロサンゼルスに古川を訪ねた。

 「今アスキーに来れば取締役になれるけれど、2年後にはお前の入る余地はなくなるよ」

 そう殺し文句をぶつけて、西はショップとの絆の切れた古川を口説いた。マイクロソフトとの提携交渉を進めてベーシックの市場開拓を狙う西にとって、新しい技術の可能性を雄弁に語りうる人材の確保は緊急の重要な課題だった。

 1978(昭和53)年10月、アスキー出版はマイクロソフトと提携し、同社の極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立した。

 翌1979(昭和54)年2月、帰国した古川は8番目の社員としてアスキー出版に入社した。

 アスキーの社員となって3日後、西は古川を日本電気で開かれる新機種の仕様検討会議に引っ張っていった。発表済みのコンポBSに続いて日本電気が開発を進めている8ビットの新機種は、PCX-01とコードネームで呼ばれていた。マイクロコンピュータ販売部長と名刺の肩書きにある渡辺和也をはじめとする大企業の大人たちの前に引き出されて、古川はてのひらに吹き出す汗を抑えられなかった。その古川の緊張は、アメリカ出張から帰ったばかりの西が時差に耐えられなかったのか、「こいつがいろいろとよう知っとりますから、こいつに聞いてやってください」と言うなり床にごろりと寝転がり、いびきをたてて眠りだしたときに頂点に達した。

 乾ききった口を無理矢理絞り出した唾液で湿らせて覚悟を決め、古川はコンポBSそっくりに赤と白に塗り分けられた試作機のキーボードに10本の指を置いた。キーを叩きはじめると、押し込む途中の引っかかりの強さが気になった。0から9までの数字を入力するテンキーの代わりに、TK-80以来の16進数のキーが付けてあるのも、いかにも古くさい印象を受けた。

 「ほーっ」と日本電気のスタッフが漏らす声が耳に止まって、古川は面々が腰を浮かして自分の指の動きに視線を釘付けにしているのに気付いた。

 「キーを見ないで打っているんだ」

 そう言われてはじめて、キーボードを自由に扱うというほんのちっぽけな技量が、日本ではメーカーの人間にとってもまだ特殊であることを思い知らされた。

 再びキーボードを叩きはじめたとき、古川は緊張の波がフィルムを早回ししたように駆け足で引いていくのを意識した。

 「どんどんキーを叩いてユーザーが『使う』マシンを作ろうとするのなら、このタッチには問題があると思います。それに実用の機械を作るのなら、PETやTRS-80がそうしているとおり、16進ではなくてテンキーを付けた方がいい。筐体の色も、もっと地味なものに変えたほうがいいですよ」

 こわばりのとけた古川の口から、のちにPC-8001と名付けられることになるPCX-01への注文がつぎつぎに滑り出してきた。 

 西と古川にとってPCX-01への最大の注文は、オリジナルのベーシックを捨ててマイクロソフトのものを採用することだった。その意味で、マイクロコンピュータ販売部のベーシックの書き手である土岐泰之は、彼らの壁だった。だが言葉の端々に鋭い見通しを感じさせ、事実、速くてコンパクトなベーシックを書き上げた実績を持ち、世の中の大きな流れに沿いながらも核となるソフトウエアに関しては自分たちで作れるはずだと強い自負をのぞかせる土岐の姿勢には、話し合いの機会を重ねるごとにむしろ共感が深まった。

 どこかひょうひょうとしながら一匹狼の踏ん切りを腹にためた後藤富雄を兄貴分として、ソフトウエアの土岐泰之、ハードウエアの加藤明を核に配した日本電気の開発チームに、古川はWCCFで出会った人々に覚えたのと同様の近しさを感じるようになった。

 面白いと思った技術、進むべきと考えた方向を口にすると、開発チームの面々は古川の言葉を受け取るやすぐに小気味よい発想を投げ返してよこした。彼らは日本電気という大企業に籍を置いていたが、西や古川と同様、同じパーソナルコンピュータの変革の波に乗り合わせた仲間たちだった。

 日本電気で初舞台を踏んだ古川は、それ以来、西と同道して各社のパーソナルコンピュータ開発チームを軒並み訪ねて歩きはじめた。各社のマシンにマイクロソフトのベーシックを売り込むうえで、アメリカ生まれの新しい文化の申し子といった彼らの醸し出す空気は、有力なセールスの武器となった。

 1979(昭和54)年4月、日本電気は並行して開発を進めていた自社とマイクロソフトのベーシックを比較検討したうえで、知名度と勢いを取ってマイクロソフトのものを採用する方針を固めた。

 翌5月に発表されたPC-8001の第1の特長として、日本電気は「強力な会話型の言語である『MICRO SOFT』系の『BASIC』が大容量のROM(最大32Kバイト)に書き込まれている」点をあげた。

 このPC-8001への搭載を突破口として、西と古川は日本のパーソナルコンピュータに続々とマイクロソフトのベーシックを採用させていった。日本のソフトハウス、ハドソンの開発したベーシックを載せたシャープのMZ-80Bといった一部の例外を除いて、マイクロソフトのベーシックは日本の標準となった。

 雑誌出版から基本ソフトウエアの販売へという業態の拡張は、切り開くべき新しい世界の扉をつぎつぎとアスキーに開いていった。

 PC-8001の開発にあたって、ベーシックを売り込むとともに製品の方向付けに対してさまざまなアドバイスを行ったアスキーは、マシンに付けるマニュアルの製作も日本電気から請け負った。あくまでマイクロコンピュータの販売を本業とし、パーソナルコンピュータに割くマンパワーを限られる渡辺の部隊にとって、アスキーはこの分野により大きな力を注いでいくうえで絶好の助っ人となった。

 1979(昭和54)年9月に出荷を開始したPC-8001が好調な売れ行きを示しはじめると、今度はアスキーの側に、PC-8001で走らせるアプリケーションを売ろうとするアイディアが生まれた。

 『ASCII』の創刊には全力を傾けたものの、西はその直後からアメリカでの技術の仕込みに関心を集中させるようになっていた。雑誌の編集は、創業者トリオの一角である塚本慶一郎が取り仕切った。

 その塚本は、1978(昭和53)年の6月、アプリケーション事業の先駆けとなる単行本を出した。西がアメリカから仕入れてきた、ゲームのプログラムを101本掲載した『Basic Computer Games』の解説を翻訳し、日本語版として売り出してみた。するとこの本が、立派に売れていった。

 ユーザーたちは、使えるプログラムに餓えていた。

 「ベーシックを学べば、必要なプログラムは自分で書くことができる」という能書きに、決定的な嘘があったわけではない。だが多くのユーザーにとって、コンピュータが動くことを確認する以上の意味を持った、繰り返し使うに価するプログラムを書くことは、やはり困難だった。1から論理を組み立ててプログラムの設計から始めるよりは、印刷されたプログラムのリストをただ入力することのほうが、はるかに敷居は低かった。

 『Basic Computer Games』に手応えを感じた塚本は、PC-8001誕生のタイミングをとらえ、入力済みのソフトウエアを下準備なしに使えるようにすることで、今度は敷居をなくそうと試みた。

 PC-8001は、標準でカセットテープレコーダーをつなぐインターフェイスを備えていた。塚本は『ASCII』の執筆者を総動員して乃木坂のアジア会館に缶詰にし、ごく単純なゲームばかりだったものの3週間で30本のソフトウエアを仕上げさせた。カセットテープに収めたプログラムと解説書とをセットにした『PC-8001 BASIC ゲームブック』は、1979(昭和54)年12月に書店に並ぶと売れに売れた。

 おおもとのマシンに基本となるソフトウエアを提供し、そのマシンのマニュアル作りを引き受け、雑誌や書籍でマシンに関する情報を流したアスキーはさらに、ユーザーがそのマシンで使うアプリケーションを提供する作業にも乗り出した。

 発想が次の発想を呼び、1つの仕事が別の仕事を引き連れてきて売り上げを急増させていった。

 1980(昭和55)年10月、彼らはアプリケーションの開発と販売部門を独立させてアスキーコンシューマープロダクツを設立し、この分野に本格的に取り組む体制を固めた。

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