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パソコン創世記
マイクロソフト、パソコン環境の統合を目指す

京都セラミツク社長、稲盛和夫

富田倫生
2010/3/25

「MS-DOS」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 事実、8ビットの世界ではすでに、CP/Mが商品としてのアプリケーション開発の共通基盤として機能しはじめていた。ある特定のマシンのベーシックに縛られない、より商品性の高いアプリケーションをより大きな市場にぶつけるために、一部のソフトハウスはCP/Mに対応させてプログラムを書きはじめていた。ハードウエアのメーカーは、たくさんのすぐれたソフトが利用できるというメリットを付け加えようと、自社のマシンにCP/Mを採用するようになった。そしてユーザーは、もともとベーシックの専用機として仕立てられていたマシンにフロッピーディスクドライブをつなぎ、CP/Mを買い足して、対応するソフトウエアを使いはじめていた。CP/Mをあらかじめ読み込んでおくために、メモリーの容量は確かにより大きなものが必要となった。だが機械語への変換済みのCP/M対応ソフトは、とにかく速かった。

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 このOSの台頭の流れに乗って8ビットの標準を押さえたデジタルリサーチは、16ビット版のCP/M-86を準備していた。だがPCへの採用に関して1歩先駆けたマイクロソフトには、MS-DOSを16ビット以降の標準に押し上げるチャンスがあった。MS-DOSを成功させ、GWベーシックに向けて流れを集めることができれば、マイクロソフトはパーソナルコンピュータの基本ソフトを独占的に押さえ、しかもプログラムの互換性を広く保証するという健全な役割を果たしうるはずだった。

 NECのPC-8001は、日本市場のさまざまなマシンに基本ソフトを売り込んでいくきっかけとなった。

 そしてIBM PCは、マイクロソフトの成功と引き替えにさまざまに分岐することになった環境の統合のチャンスを、彼らに与えようとしていた。

 1981(昭和56)年8月、IBM PCの発表と同時に自らの製品としてMS-DOS 1.0を発表したマイクロソフトは、1982年4月、GWベーシックのアナウンスを行った。

 彼らははっきりと、パーソナルコンピュータの環境の統合に狙いを定めていた。

 だが「このチャンスを絶対に逃すべきではない」として躊躇するビル・ゲイツの背を押した西和彦は、IBM PCの出荷が開始されて誰の目にもこのマシンの成功が明らかとなった時点では、もう次のターゲットに向けて走り出していた。

 ハードウエアメーカーの作ったマシンに、ベーシックなりMS-DOSなりをあとから供給していく立場から一歩踏み出し、西は作りたいコンピュータを思いどおりに作るチャンスを狙っていた。

 雑誌社を立ち上げたばかりの西が、ビル・ゲイツとの出会いをジャンピングボードとして基本ソフトの供給者へと脱皮を遂げたように、彼がマシン作りの主体へと再度の飛躍を試みるにあたっても、ある人物との出会いがあった。

 1981(昭和56)年秋、サンフランシスコから成田行きの便のファーストクラスに乗り込んだ西は、隣り合わせた日本人と言葉を交わした。

 名刺を交換すると「京都セラミツク社長、稲盛和夫」とあった。

 どんな仕事をしているのかと最初にたずねたのは、稲盛の方だった。

 西は、日本で『ASCII』という雑誌を出しており、マイクロソフトの副社長として、パーソナルコンピュータの基本ソフトウエアの開発と販売に取り組んでいると答えた。

 名前だけは聞いたような記憶があったが、西の側にも「京都セラミツク」がどんな会社であるか、その時点では知識がなかった。

 聞けば、陶磁器と同じ焼き物の構造を持ちながら、材料の純度と製造工程を徹底的に管理した精密なファインセラミックスで、いろいろな分野の部品を作っているのだという。

 1955(昭和30)年、稲盛和夫は鹿児島大学工学部応用化学科を卒業し、高圧電線用の碍子メーカーである京都の松風工業に入社した。高等小学校時代に結核を患った稲盛は、この経験もあって大阪大学の医学部薬学科を志望したが果たせず、家族の強い勧めでニ期校の鹿児島大学に進んだ。さらに就職に際しても、この分野の当時の主流である石油化学メーカーの入社試験に失敗し、いずれプラスチックの材料に取って代わられるだろう時代遅れの焼き物の会社に入ることになった。

 ところが稲盛の入社直後、松風工業は松下電子工業の依頼を受けて、ブラウン管に用いる絶縁体を磁器で作る研究に着手した。稲盛はここで、徹底した粘りと親分肌のリーダーシップを発揮して、特殊磁器分野を松風工業の大きな柱に育てた。だが入社間もないニ期校出身者の活躍は社内の反発を招き、稲盛は特殊磁器担当の仲間や上司だった人物とともに松風工業を飛び出して、1959(昭和34)年4月、京都セラミツクを興した。

 絶縁性にすぐれ、熱に強く、硬いとさまざまな特長を備えた新世代のセラミックスで、材料の市場に食い込んでいった京都セラミツクにとって、大きな飛躍のきっかけとなったのは1968(昭和43)年にアメリカの大手半導体メーカー、フェアチャイルド社から飛び込んできた、ICパッケージの注文だった。

 セラミックスをガラスで固定する従来のパッケージが、歩留まりを高められない点に悩まされたフェアチャイルドは、セラミックスだけでパッケージを作る技術の開発を稲盛に持ちかけた。これをきっかけに確立した技術によって、京都セラミツクはICパッケージの分野を独占的に押さえ、集積回路の急激な発展と軌を一にして猛烈な勢いで成長を遂げた。

 売上高に対する経常利益率が、成長を重ねながらなお20パーセント台を維持し続けるという高収益体質と、社員の滅私奉公的な献身、その核となる稲盛和夫のカリスマ性において、「京都セラミツク」は際だっていた★。

 ★『業態革命』(田原総一朗著、新潮社)所収の「京都セラミクス(ママ)」は同社の誕生から成長にいたる歩みを丹念に跡付けている。

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