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パソコン創世記
第2部 第4章 PC-9801に誰が魂を吹き込むか
1982 悪夢の迷宮、互換ベーシックの開発

卓上型オフィスコンピュータ「システム20/15」

富田倫生
2010/4/22

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 日本電気オリジナルのμCOM-1600を採用したシステム20/15は、日本語ワードプロセッサーの機能を備え、上位機との互換性を持ちながら机の上に収まる超小型サイズを売り物とするオフィスコンピュータと位置づけなおされた。これまでシステム100用にコンパクトAPLIKAのシリーズ名で書きためられた業種・業務別のさまざまなアプリケーションが利用できるほか、BPC用に開発を進めてきたPRISMと名付けたグラフ作成用プログラムも、ソフトウエアのラインナップに加えられた。マルチ16の開発にあたって、三菱電機がオフィスコンピュータ用のプログラムを移植したのと同様、BPCに向けて日本電気は幅広いアプリケーションを自ら供給する体制を整えていた。

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 もしもこのマシンをパーソナルコンピュータとして発表することになっていたら、古山が部長を務める第5開発部があらたに用意したN16-BASICの搭載は、特長の1つとして強調されていただろう。だがオフィスコンピュータとして位置づけなおしたことで、システム20/15におけるベーシックの重みはほとんど失われることになった。

 システム20/15の最小構成の価格は、199万8000円とされた。

 BPCのハンドルを急遽切りなおして性格付けを変更するもう一方で、浜田は形ばかり立ち上げたプロジェクトの、実質的な肉付けの作業に着手した。

 これまで小型システム事業部のオフィスコンピュータは、ハードウエアを戸坂馨率いるセクションがにない、ソフトウエアはITOS事件以来、古山良二のチームが担当してきた。最終的にはシステム20/15に化けることになったBPCも、この両輪を軸として開発を進めた。仕切りなおしてスタートを切る16ビット機でも、浜田はこの体制で臨む腹を固め、石井善昭以下の上司の承認を取りつけた。

 加えて浜田は、3つの柱からなる特別チームを別個に組織し、開発計画を後押しするとともに、可能な限りの準備を進めておこうと考えた。

 新たに「速いPC-8801」を目指すにあたって、浜田自身、不安をぬぐいきれなかったのがアプリケーションの供給体制だった。

 渡辺和也はあくまで「パーソナルコンピュータではサードパーティーこそがアプリケーション供給の中心になる」と強調した。確かにアメリカ市場でもそうした他人任せのスタイルが中心となっている事実はあった。互換性のあるベーシックを積めば、これまでのマシン用に書かれたアプリケーションはそのまま利用できた。ただしパーソナルコンピュータを仕事の道具として本格的に売り込んでいくためには、ビジネス向けの本格的なソフトが絶対に欠かせなかった。

 その肝心のビジネス用ソフトの開発をサードパーティーに任せきりにしておくことは、あまりにもリスクが大きい。アプリケーションをすべて自分で用意するというオフィスコンピュータの流儀を捨てるのなら、少なくともそれに代わるものを確実に他人に用意させる準備が必要になると浜田は考えた。

 IBMはPCの開発中に、ビジネス用として人気を博しているソフトウエアのメーカーを中心に移植を働きかけ、マシンと同時にビジカルクやイージーライターなど、利用可能なアプリケーション8本を発表していた。

 この例にならおうと考えた浜田は、プロジェクトチームの第1の柱として、応用ソフトワーキンググループと名付けたアプリケーションの開発促進チームを置いた。このグループのチーフには、ソフトハウスの調査を担当させた早水潔を据えた。

 具体的にどのようなマシンを作るのか、細部の仕様を詰めていく製品計画ワーキンググループのチーフには、オフィスコンピュータの製品計画を担当してきた小澤昇を指名した。

 できたマシンをどう売っていくかを詰める販売計画ワーキンググループのチーフには、窪田孝をあたらせた。

 1982(昭和57)年3月に入って、PC-8801の互換16ビット機をターゲットとしたN-10プロジェクトが本格的に始動しはじめた。

 発売開始目標の10月まで、形式的なスタートを切った12月から起算して10カ月。だが実質的な開発期間は、わずか7カ月にすぎなかった。本来は月半ばでけりを付けるはずの互換ベーシックの仕様検討を、古山のチームは3月末ぎりぎりまで引きずった。

 並行して着手した基本設計と仕様検討の進ちょく状況を睨んでいた古山は、困難を充分予測していたはずの互換ベーシック開発に要する作業量を見誤っていたことに、早くもこの時点で気付かされた。PC-8801やPC-8001のベーシックには、マニュアルに書かれてあるのとは微妙に異なった動き方をする箇所が見つかりはじめていた。たとえマニュアルに書かれたとおりの機能を持ったベーシックを開発し終えたとしても、これでは微妙な差異が引っかかって従来の8ビット機用に書かれたプログラムが動かなくなったり、奇妙な動き方をする恐れがあった。果たしてN88-BASICやN-BASICの完全な正体がどんなものなのか、隠されたコマンドや、マニュアルとのずれがどの程度存在しているのか。古山の胸に大きな不安の雲が立ち昇ってきた。

 古山は時をおかず、互換ベーシック開発には当初予測した65人月に加えて、もう50人月は必要となるという緊急のレポートを浜田に入れた。

 互換ベーシックを書くことを引き受けたとき、古山は底の見えない谷に張ったロープの上に立つ覚悟を決めていた。だがバランスを取るための棒を握り、ロープにいざ一歩を踏み出したその瞬間、目指すもう一方の端は潮が引くように遠ざかり、視界の彼方に吸い込まれていった。

 4月12日、日本電気はシステム20/15を発表し、即日販売を開始した。

 古山にはもう、引き返すことはできなかった。

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