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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

ホームブルー・コンピュータ・クラブ

富田倫生
2010/5/20

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1975年3月5日、サンフランシスコからサニーベイルに向かって南に下る途中のメンローパークにあった発起人の家で、ホームブルー・コンピュータ・クラブの初めての集まりが持たれた。

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 スタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレー校などに貼り出された参加を呼びかけるびらには、「自分でコンピュータや端末装置、TVタイプライター、入出力装置、デジタル式の魔法の箱を作ってみませんか?」と書かれていた。クラブの初会合には、学生やエンジニア、プログラマなど30名ほどがシリコンバレーの各所から集まってきた。

 その輪の中に、スティーブ・ウォズニアックもいた。

 集まってきたメンバーにとって当時の関心の的となっていたのは、マイクロコンピュータを使ってコンピュータとして動くように仕上げたシステムだった。1975年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』では、アルテア8800が大きく取り上げられていた。集まったメンバーの多くは、マイクロコンピュータが新しい世界への扉を開いてくれるだろうと直感していた。

 ミニコンピュータに精通したウォズニアックには、マシンの手作りを試みた経験もあった。だがマイクロコンピュータにはそれまで触れる機会がなく、クラブの初会合では腰の落ちつかない気分を味あわされた。8008や8080といったチップの名称は、ウォズニアックの耳にパスワードのように響いた。周囲の会話はウォズニアックにとって、ちんぷんかんぷんだった。

 だがマイクロコンピュータに関して調べはじめると、違和感はすぐに強い好奇心に変わっていった。

 クラブで話題になっていたのは、もっぱらインテルの最新のチップ、8080だった。だが、インテル以外の半導体メーカーもすでに、マイクロコンピュータの製品化に踏み切っていた。ウォズニアックが籍を置いていたHPでは、モトローラの6800を試験的に使ってみる計画が持ち上がっていた。この関連で1975年の夏、6800と周辺チップが破格値で社員に販売されることになった。

 ウォズニアックはこれに飛びついた。

 安く手に入ることも大きなメリットだったが、6800には技術的な魅力があった。インテルの製品は、もともと電卓用のチップとして開発された4004を原点に、端末機用に機能拡張した8008を経てから、初めて汎用部品を目指していた。こうした流れに乗った8080には、新しい用途に合わせてそのつど力づくで課題をこなしていったような筋の乱れが感じられた。一方、後発ではじめからコンピュータとしての利用を想定できたモトローラは、ミニコンピュータのCPUをチップ上に移し替える発想で6800を開発していた。6800の命令体系は、DECのPDP-8とそっくりだった。もともとミニコンピュータの経験を持っていたウォズニアックにとって、6800はすんなりとなじむことのできる、じつにコンピュータらしい構造を持ったチップだった。


 物理学を専攻したのち、ロッキードに勤めていたアレックス・カムラットは、仕事で使っていたコンピュータへの関心を膨れ上がらせて、独立のプランを思い描くようになった。

 会社をやめ、自宅を売り払って得た資金でミニコンピュータを買ったカムラットは、計算業務を請け負い、タイムシェアリングで処理能力を切り売りする商売を始めた。

 タイムシェアリングの彼の顧客は、いずれもテレタイプを通信回線の向こう側に置いていた。マイクロコンピュータの存在を知ったカムラットは、これを使えばもっと使いやすい端末が作れるのではないかと考えた。タイプライター型のキーボードを備え、テレビに接続して画面に文字が出せるような端末が安く作れれば、これを賃貸するなり販売するなりして顧客をより多く獲得できるだろう。そう考えたカムラットは、ホームブルー・コンピュータ・クラブを覗いて、開発を請け負ってくれるエンジニアを探そうと考えた。

 「ここに来る連中の中で、1番切れるのは誰か」

 カムラットがクラブのメンバーにそう声をかけると、「ウォズ」と答えが返ってきた。

 当初は戸惑いもあったが、コンピュータの手作りをすでに経験していたウォズニアックの〈冴え〉は、クラブでもすぐに光りはじめていた。

 1975年の夏、カムラットはウォズニアックを説得して、端末の開発のために新しい会社を起こした。HPに籍を置いたまま、ウォズニアックはコンピュータコンバーサー社と名付けた2人の会社のために、端末の開発に着手した。まず端末を作り、いずれこれを機能強化していけば、独立したコンピュータとしても使えるものができるのではないかと、カムラットは考えていた。

 話題の8080は、当初350ドル近かった。他社の製品にも数百ドル単位の値段がついていたために、マイクロコンピュータを使って一から設計する前に、ブームを呼んだゲームマシンの「ポング」を安く仕入れてきて、これを端末に改造することを試みた。

 ポングはウォズニアックにとって、おなじみのマシンだった。

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