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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

アタリと「ポング」

富田倫生
2010/5/21

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ブルーボックスの商売から足を洗ったあと、スティーブ・ジョブズは1972年に、オレゴン州ポートランドのリードカレッジに進学していた。すぐに大学からはみ出したジョブズは1973年の夏をインドで過ごした。翌年のはじめには、再びインドへ行くための費用を稼ごうと、コンピュータゲームで急成長していたアタリ社の求人広告に応募した。

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 囲碁の「当たり」から社名を取った同社の創設者ノーラン・ブッシュネルは、スティーブ・ジョブズの生まれる11年前、1943年にユタ州に生まれた。

 貧しい煉瓦職人の子として育ったブッシュネルは、果物を売り、レモネードスタンドに立ちながら育ち、ユタ大学の工学部に進んでからは遊園地で働いて学費を稼いだ。大学でコンピュータを学ぶ一方、遊園地ではゲーム担当の支配人として100人あまりの少年たちを使う立場についたブッシュネルは、就職先としてディズニーを目指した。だがアルバイトに明け暮れた挙げ句の最悪の成績がじゃまをしてかなわず、ビデオテープの開発で知られる、シリコンバレーに本拠を置いていたアンペックス社でエンジニアとして働きはじめた。

 しばらくはアンペックスの退屈な作業をこなしていたものの、やがて生来の遊び心がブッシュネルの中で頭をもたげてきた。ブッシュネルは、コンピュータゲームを小さなシステムに仕立て上げるプランに熱を入れはじめた(『コンピュータウォリアーズ』第1章「ノーラン・ブッシュネル」)。

 コンピュータで初めて遊んでやろうと考えたのは、マサチューセッツ工科大学(MIT)でジョン・マッカーシーの作業を手伝っていたハッカーたちだった。

 1961年、MITにDECの超小型コンピュータ、PDP-1が導入された。CRTディスプレイを備え、対話型の処理に道を開いたまったく新しいイメージのマシンに、ハッカーたちは目の色を変えた。すでにこれまでにも、MITではディスプレイを備えた小規模なシステムが使われており、コンピュータの処理の結果を目に見える形で表示することの可能性に彼らは注目していた。ディスプレイ付きのPDP-1は、グラフィックスの可能性を開くさまざまな実験を試みる絶好の舞台となった。

 ハッカーの1人が取り組んだのは、2台の宇宙船を駆って画面上の宇宙空間で互いを攻撃し合うシューティングゲーム、〈スペースウォー〉の開発だった。彼の仲間たちはスペースウォーに熱狂して、マシンの空き時間を奪い合ってはゲームに興じた。さらに、正確な位置に星座を表示させたり、宇宙船の航行に星の重力による影響を加えたり、ワープの機能を与えたりといった拡張が寄ってたかって進められた。やがてこのプログラムを収めた紙テープがDECのミニコンピュータを納入した大学や企業に流れては、各所にゲーム中毒患者を発生させた(『ハッカーズ』第1部、第3章「宇宙戦争」)。

 流れていった先でも、スペースウォーにはさまざまな手直しが加えられた。

 一方ノーラン・ブッシュネルはミニコンピュータではなく、ボーリング場やビリヤード場の隅に置けるような小さなシステムにこうしたゲームを収めたいと考えた。

 1972年、ブッシュネルは初めての作品となる〈コンピュータスペース〉を作った。技術者仲間には評判がよかったが、初めてテレビゲームに触れる人間にはあまりにも複雑すぎた。そこで2作目では、ゲームの中身をごく単純なものにした。〈ポング〉と名付けられた次のゲームは、ディスプレイをはさんで向き合った2人のプレイヤーが玉を打ち合う、電子式の卓球だった。

 サニーベイルのビリヤード場にピンボールのマシンと並べてためしに置かせてもらうと、ポングには順番待ちの列ができ、コインボックスはたちまち硬貨でいっぱいになった。

 1972年、ブッシュネルはアンペックスをやめてアタリを起こし、ポングのゲーム機械を売りまくった。さらに1975年には、テレビにつないで使う家庭用のポングの販売に踏み切った。

 ボーリング場でポングを見かけて以来、ウォズニアックもこのゲームに入れあげていた。やがて彼はアタリで働いていたジョブズに誘われて、工場のマシンでただで遊ばせてもらうようになった。ゲームにはまるにとどまらず、ウォズニアックはポングの改良にも興味を持って、自分なりに作り直してもみた。自作したポングをアタリで披露すると、こっちに移って働かないかとの申し入れがあった。だがこの時点では、HPを離れる気にはならなかった。

 ブッシュネルはポングに続く新しいゲームの候補の1つとして、跳ね返ってくるボールを打ち返しながらブロックの壁を崩していくものを開発しようと考えていた。ウォズニアックの力をあてにして、ジョブズは「4日で作ってみせる」と宣言し、ブロック崩しの仕事をもぎ取ってきた。

 HPで働いていたウォズニアックは、夜を徹して設計に取り組んだ。ジョブズが昼間、配線の作業を続けた結果、試作機は約束どおり4日で仕上がった。

 ブッシュネルはブロック崩しの開発にあたって、できるだけ少ない部品で回路を構成するよう注文をつけていた。回路をシンプルに構成できれば、ゲーム機の製造コストを抑えることができた。可能な限りシンプルにとの注文は、ウォズニアックの美意識にもぴったりと合っていた。少年時代からのエレクトロニクスとコンピュータへの没頭の日々の中で、ウォズニアックは「最少のコンポーネントで最大の効果を上げることこそが設計の美である」との強い信念を育てていた。大学時代、プログラミングに熱中してコンピュータの使用時間を稼いでいるあいだも、常に彼の念頭にあったのは「どうすればプログラムを短くできるか」に対する挑戦意識だった。処理の結果は同じであっても、アルゴリズムを組み替えることでプログラムの文字数を1字でも減らすことができれば、彼は幸せを感じることができた。

 新しいなにかを作り上げること、それも可能な限りシンプルに作り上げること、それ自体が、スティーブ・ウォズニアックにとっては内なる人生の目標となっていた。

 ウォズニアックが原型を作り上げたこのゲームは、のちに設計しなおされ〈ブレイクアウト〉と名付けられて世界的なヒット商品となった。

 勝手知ったるポングを使って、ウォズニアックはコンピュータコンバーサー社のための端末の試作機を、すぐに作り上げた。

 だが試作した端末が機能することを確認すると、ウォズニアックの興味は、この端末を使って、すでに運用が始まっていた研究者用のコンピュータネットワークを飛び回ることに移った。ウォズニアックに端末の開発を持ちかけたアレックス・カムラットは、この1件を通じて彼がまぎれもない天才であることを思い知らされた。だが共同経営者という立場にはあったものの、ウォズニアックはそれ以降、端末の開発自体には興味を失ってしまった。カムラットはほかのエンジニアを雇い入れ、ウォズニアックを督促して端末の製品化に向けて準備を進めようとしたが、ウォズニアックの腰はすっかり引けていた。試作された端末の延長線上にある未来に強い確信を抱き、リーダーシップを発揮してウォズニアックの才能を引き出し続けられなかったカムラットは、先駆的なパーソナルコンピュータのベンチャー企業の経営者となるチャンスを指先で失った。

 1975年の夏が終わり、カムラットがパートナーの非協力的な態度に頭を抱えていた時期、当のウォズニアックの関心はマイクロコンピュータを使った新しいシステムの側にすっかり移ってしまっていた。

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