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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

ピープルズ・コンピュータ・カンパニー

富田倫生
2010/5/26

前回「ボブ・アルブレヒトとベーシック」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1964年9月、学生運動規制の方針を示したカリフォルニア大学バークレー校当局に対し、学内の諸団体は各々の自主性を尊重する緩やかな共闘態勢を組み、フリー・スピーチ・ムーブメントを組織した。

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 反権力、反権威をかかげ、ベトナム戦争への大学の関与を指弾する一方で、大学とはなにか、大学生である自分とはなにかを問いなおそうとしたこの運動は、のちに世界中で火を噴いた学生運動のテーマとスタイルを先取りしていた。1960年代後半、世界をおおった学生反乱の源流を生み、カウンターカルチャーの巨大なゆりかごとして機能した西海岸のはみ出し者たちの中には、コンピュータを管理と支配の象徴としてとらえる意識が根を張っていた。

 だがダイマックスを拠点としてコンピュータとのもう1つの関係を探ろうとするアルブレヒトらの試みは、少しずつ彼らの中でも輪を広げていった。アルブレヒトはコンピュータを人々に解放するための紙の爆弾を用意しようと考え、1972年秋、『ピープルズ・コンピュータ・カンパニー★(PCC)』と名付けた雑誌を発行しはじめた。

 ★『ハッカーズ』によれば、この誌名はジャニス・ジョップリンが一時期参加したビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーのもじりであるという。さらにたどればビッグ・ブラザーはジョージ・オーウェルの『1984』から、ザ・ホールディング・カンパニーはマリファナを持っているという意味のスラングからきている。蛇足とは知りながら一言付け加えれば、灰になっても忘れることのなさそうなジャニスの「サマータイム」は、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー時代の佳作である。1966年にこのバンドに加わったジャニスは、「チープ・スリル」を残して1968年には彼らと別れ、「パール」のレコーディング中の1970年10月にはすでに死んでいる。何の関係もないと思われるかもしれないパーソナルコンピュータの歴史とロックミュージックの忘れえぬ出来事は、ある種の人々の歩みの中では深く結びついている。

 『PCC』は、ミニコンピュータを培養器として発生しはじめていたハッカーたちの情報交換の広場となった。当初『PCC』はダイマックスによって発行されたが、軌道に乗ってからはアルブレヒトはこの雑誌を切り離し、コンピュータ解放運動の主体となるPCCというグループを別個に組織した。


 1975年初頭、スタンフォード大学で講師としてコンピュータサイエンスを教えていたデニス・アリソンは、『PCC』に載せる書評を早く書き上げるようアルブレヒトにせっつかれていた。アルブレヒトが全米コンピュータ会議で行った巡回科学教室の実演に興味を持って彼と知り合ったアリソンは、PCCの設立時にアルブレヒトに頼まれて役員を引き受け、雑誌に原稿を寄せていた。

 ようやく書き上げた原稿を事務所に持参すると、雑誌に目を落としていたアルブレヒトが「こりゃすごい」とつぶやいて記事を読むように促した。アルテアを紹介した『ポピュラーエレクトロニクス』の記事に、アリソンもまたすぐに引きずり込まれていった。

 「500ドルならみんなこの素晴らしいマシンを買うぞ。これで革命が起きるかもしれない。けれどこんなものすごい、たった256バイトなんてメモリーじゃ、誰も何もできやしないぞ★」

 ★『DDJ』の創刊につながっていくこの間の経緯は、1979年4月号の同誌に掲載されたアルブレヒトとアリソンへのインタビューに詳しい。インタビュー記事中、アリソンはアルブレヒトが「500ドル」と叫んだと確かに語っている。アルテアの価格がキットで439ドル、完成品で621ドルだったことを記憶する物覚えの素晴らしくよい読者は、キットとも完成品とも異なる「500ドル」に引っかかるかもしれない。ただし1975年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』では、アルテアのキット価格は397ドル、完成品は確かに498ドルとされていた。要するにMITSが、発売開始にあたって値上げしたわけである。

 雑誌から視線を起こさない客人にアルブレヒトがそう語りかけると、アリソンは「じゃあ、メモリーのサイズに合わせた本当にちっぽけなベーシックってのはどうだい」と応えた。「それなら君がなにか書いてくれ」となって、アリソンは『PCC』にベーシックの記事を書くことになった。

 短い打ち合わせの結果、記事では読者の1人ひとりが自分なりのごく小規模なベーシックを書き上げることを目指すことになった。

 読者層の中心は、アルテアを買った人たちに置いた。アルテアの使った8080と1世代前の8008をターゲットに定め、「あなた自身のベーシックを作ろう」と題して、1975年3月号の『PCC』に連載の第1回目の記事を載せた。ベーシックとはどんな言語であり、どういった方針で手作りの開発作業を進めていくか、大枠の方針を示したアリソンは、「作業は特に未経験者にとっては容易なものではなく、1人でかかれば開発に6カ月程度はゆうに要してしまう」と断ったうえで、このプロジェクトへの積極的な参加を呼びかけた。

 「すべての方が、この設計作業に関心を持ってくれればと思います。我々だけで作業を進めることは可能ですし、事実そのような経験も我々は持っています。けれどあなた方のアイディアは、我々のものに勝っているかもしれません。さまざまな作業や問題に関して、おそらく我々はあなた方を助けることができるでしょうし、あなた方もまた我々を助けてくださるでしょう。どうか手紙を書いてください。そうすればあなた方の手紙やコメントを掲載いたします」

 連載記事で開発を目指す小規模なベーシックを「タイニーベーシック」と名付けたのはアルブレヒトだった。開発の容易さと、そして何よりも小さなメモリーのスペースに収まることを目指し、ベーシックの機能の一部を取り出して開発するタイニーベーシックを売り込む一説を、アルブレヒトは初めての記事の終わりに付け加えた。

 「あなたが7歳だったとして、浮動小数点演算(なにそれ)、対数、サイン、行列反転や核反応炉に関する計算といったものに大してこだわらないとしましょう。そしてあなたのホームコンピュータはちっぽけなもので、メモリーもわずか。おそらく4Kバイト以下のMARK-8かアルテア8800で、入出力のためのテレビタイプライターが付いている。それを宿題や、数学的な謎解きやNUMBER、STARS、TRAP、HURKLE、SNARK、BAGELSといったゲームに使いたいとしましょう。

 それならタイニーベーシックはどうでしょう。

 8ビットか16ビットの整数の演算のみ/AからZまでの26個の変数/乱数機能はもちろん!/7種類のベーシックのステートメント(INPUT、PRINT、LET、GOTO、IF、GOSUB、RETURN)/文字列? PRINTステートメント中ではOK、その他ではダメ」

 ビル・ゲイツとポール・アレンは、アルテア誕生の記事に刺激されて商品としてのベーシックを書きはじめた。ちょうど同じ時期、同じく『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアと出会ったボブ・アルブレヒトとデニス・アリソンは、タイニーベーシックの手作りを目指す大衆運動に火をつけようと動きはじめた。

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