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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

MYCOM-4

富田倫生
2010/6/15

前回「日本のパソコンをリードした2人の研究者」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

松本吉彦
マイコンに目覚める

 大学に入ってそうそう、『トランジスタ技術』への寄稿で名前を売った松本には、精密機械工学科からアルバイトの技術スタッフとして働かないかと声がかかった。

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 サーボ技術を利用したり、コンピュータと組み合わせて機械を細かく正確にコントロールするために、精密機械の分野でも、当時からエレクトロニクスの知識が不可欠となっていた。友人たちの一間のアパートが7000円から1万円程度だった当時、3万5000円の研究室からの給料は松本にとって大きかった。

 一から十まですべての流れを理解できるアナログのサーボ技術を、松本は一手に引き受けた。だがこの分野には、コンピュータによる数値制御という新しい流れが及んでいた。精密機械工学科には沖電気のミニコンピュータ、OKITAC-4300Cがすでに導入されていた。これまでは「コンピュータは分からない」と逃げてばかりいたが、教授から担当を指示されたマイクロコンピュータによる機器の制御が大きく発展していくことは、松本の目にも明らかだった。

 さらに趣味のエレクトロニクスの世界でも、マイクロコンピュータは次の冒険的なテーマとして浮上しつつあった。『トランジスタ技術』はマイクロコンピュータの大々的な特集を組み、ミニコンピュータの「ノバ」を使ってきた電気通信工学科でも、いち早く仕入れてきた8008を使って、安田助教授が手作りコンピュータ試作1号機に取りかかっていた。

 何事も一から理解できなければ満足できない自分が、セラミックパッケージの鎧を突き抜けて、デジタル技術の粋を集めたマイクロコンピュータを理解できるものなのか、松本には自信よりも不安が大きかった。

 ただ、立ちつくす者が創造の喜びを手にしえないことも、松本には明らかだった。

 やってみようと決心がついたのは、1975(昭和50)年春、アメリカのベトナムからの敗走という息を呑むような歴史の1ページを突きつけられた直後だった。

 取りあえずのターゲットは、日本電気製の4ビットのマイクロコンピュータ、μCOM-4(μPD751D)に置いた。


 インテルを追って各社からはつぎつぎとマイクロコンピュータが発表されていたが、4ビットながら回路の組みやすさに気を配ったμCOM-4は、2万円以下で手に入るという安さもあって、初めての挑戦にあたっては手の出しやすい選択肢に思えた。

 マニュアルを手に入れ、本腰を入れて調べはじめた直後は、やはりブラックボックス化された半導体の中身に手が届かないもどかしさが先に立った。真空管やトランジスター、せいぜい集積度の低いICで組んでいた時代からコンピュータになじんでいれば、CPUの回路が覗けたのにと、ついそう考えた。こうなればこうなるという対応を覚えて、ブラックボックスを使いこなすテクニックだけを身につけることは、どうにも気持ちが悪かった。

 ところが厚くたれ込めた雲のようなブラックボックスのもどかしさを、μCOM-4の1本のピンが払ってくれた。

 マニュアルを読み進んでいった松本は、むかでの足のようにパッケージから突き出しているμCOM-4の28本のピン、それぞれの役割を確認していった。1番がプラス12ボルトの電源、2番がクロックの入力と順に1つ1つのピンの役割を追っていき、8番のピンがリセットの機能を持っているとの説明を読んだところで、松本の脳の奥でなにかが閃いた。

 リセットがかかる、つまりいったんご破算にしてゼロからスタートすることができる。

 ということは要するに、膨大な回路を集積して作られたマイクロコンピュータもまた、これまで自分が慣れ親しんできた論理的な回路技術の延長上にあることの証なのではないか。コンピュータと考えるから、ついつい身構えてしまう。人工知能だ何だといった、わけの分からないイメージがつきまとってくる。だがマイクロコンピュータも所詮はデジタル技術の産物にすぎないことは、リセット端子の存在が雄弁に物語っているのではないか。要するにマイクロコンピュータは、これまでデジタルマルチメーターや電卓を作る際に使ってきたデジタルICの親玉である。確かにたくさんの回路を詰め込んでいるという規模の大きさはあるが、1つ1つの要素が理解可能な技術である以上、いかに大量に寄せ集めてあっても理解できないわけはない。

 「所詮はデジタルICじゃないか」

 そう踏ん切る気持ちが、松本の胸に湧いてきた。

 中身をいじることはできなくても、デジタルICならやっていることはすべて理解できる。ICのまとめ方に気に入らない点があったとしても、それなりにあきらめて使うなり、他の回路で補うなりすればよい。

 やがて松本は、μCOM-4のリセット端子にそう語らせるようになった。

 障壁となっていたこだわりが解けると、松本の手は素早く動いた。

 秋葉原でμCOM-4の現物を仕入れ、実際にコンピュータとして機能させるためにスイッチとランプで最低限操作できて、テレタイプも接続できるシステムの手作りに取り組んだ。

 初めてのマシンは、松本吉彦のイニシャルのMYに、マイコンピュータとの思いを重ねて、MYCOM-4と名付けた。

 『トランジスタ技術』に掲載した手作りコンピュータ記事への反響の大きさに注目したCQ出版では、このテーマ1本に絞った書籍の刊行を企画した。

 マイクロコンピュータに関する初めての特集となった1974(昭和59)年9月号に、4004を使ったATOM-10の製作記事を寄せた富崎新を中心にライターが集められた。1976年5月刊行の、『つくるコンピュータ』と名付けられた単行本に、松本はMYCOM-4の製作記事を寄せた。

 この本のために原稿を書き進めているあいだに、松本のうちには次のテーマが育ちはじめていた。

 MYCOM-4の製作記事でも、松本はできる限りマイクロコンピュータをブラックボックス扱いせず、内部の構造や動作の仕組みから掘り起こして、実際の製作記事へと誘導することを試みた。だが与えられた50ページでは、マイクロコンピュータの解剖はまったくもって不充分だった。原稿を書き終えたとき、松本には達成感よりもむしろ、あれも書きたかったこれも書きたかったとの思いが強く残った。

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