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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

PC-9801が投げかけた疑問符と衝撃

富田倫生
2010/7/15

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

PC-9801が投げかけた
疑問符と衝撃

 8月いっぱいをかけて進められたシステム設計にもとづき、9月いっぱいは詳細な回路の設計図をまとめ上げる作業にあてられた。

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 開発スタッフは設計の大枠を固め終わったこの段階で、TRONの「決起集会」を催すスケジュールを立てた。

 アスキーとマイクロソフトの双方の仕事に追われる西は、繰り返し電話に引きずり出されてまとまった時間が取れなかった。西を作業に集中させるために、9月30日と10月1日の2日間のスケジュールで予定した会議は、晴海の国際貿易センターに近いホテル、デン晴海に部屋を用意し、ホテルの会議室で行うことになった。

 日本電気の半導体部隊のスタッフが、PC-9801を知ったのはデン晴海での会議の直前だった。

 かつて情報処理事業グループのマシンにPC-8001の継承を求めた渡辺和也も、N-10プロジェクトに参考意見を述べるために加わって、オープンアーキテクチャの重要性を訴えた後藤富雄と加藤明も、浜田たちが16ビット機を開発していることは当然承知していた。

 だが彼らが半導体グループの提案をどう受けとめ、どのようなマシンを仕立て上げようとしているかは、まったくの闇の中だった。情報処理のPC-9801と、半導体のTRONは、互いの情報は完全に伏せ合ったまま、水面下で並行して開発が進められていた。

 唯一、半導体側が知りえたのは、従来機との互換性を持った16ビット版のベーシック開発に関して、西と浜田との交渉が決裂したという事実のみだった。

 もしも互換ベーシックを独自に開発するとすれば、情報処理部隊はきわめて困難でかなり規模の大きな作業を引き受けざるをえなくなるはずだった。では別の選択肢を探るのか。あるいはやはり、従来機との互換性を求めるのか。いずれにしろ、渡辺自身がもっとも確実な商品企画であると考えた、ビジネス用途を狙った16ビット版のPC-8801を仕上げるためには、情報処理はかなりの開発期間を要すると思えた。

 渡辺は翌1983(昭和58)年5月のビジネスショウで、TRONを発表したいと考えていた。互いに水面下に潜ったままのレースだったが、情報処理がPC-8801の互換機を選んでいるとすれば、TRONを日本電気の初めての16ビット機として発表できる勝算は充分にあった。

 だが彼らは、わずか半年で互換ベーシックの開発をやり遂げた。

 デン晴海での会議には、関係者9人が集まった。

 アスキーからは西、京都セラミツクとサイバネット工業から3名、マイクロハードからは松本と玉城。渡辺と後藤は加わらず、日本電気からはハードウェア関連の中心である加藤をはじめとする3名が顔をそろえた。

 後藤の不在に、松本は軽い戸惑いを覚えた。

 会議から2週間足らずの10月13日、PC-9801が正式に発表された時点で、松本は電子デバイスのチームが大きなショックに見舞われていたことを理解した。


 情報処理の新しいマシンを覗いたとき、鮮烈に焼き付いた第一印象は、IBM PC(PC)との類似性だった。

 PC-9801は松本の目に、PCと瓜二つに見えた。しかもPCが犯した誤りとしか思えない点までPC-9801がきれいになぞっていたことには、不可解な疑念を喉元に押し込まれたような驚きを禁じえなかった★。

 ★松本にとっての最大の疑問は、PC-9801がDMAコントローラに8237Aを使っていた点だった。8ビットの8080用に開発された8237Aを、16ビットと8ビットの中間的な8088を使ったPCが採用したことも、その後マシンを強化し、拡張していくことを考えれば納得のいかない選択だった。完全な16ビットの8086を使ったPC-9801が8ビット用のDMAコントローラを使ったことは、松本にはまったく理解できなかった。CPUを介さない高速なデータの転送にあたるはずのDMAコントローラに8ビット対応のものを使うことは、そもそもこの回路を標準で組み込んでマシンの高速化を図るという本来の狙いに背を向ける行為としか思えなかった。

 コンピュータはメモリをバイト単位に区切ってアドレスと呼ばれる番地を割り当て、情報の書き込みや読み出しをこのアドレスを頼りに行っている。一般に8ビットのマイクロコンピュータは、アドレスを指定するための信号線を16本持っており、一度の動作で最大16ビットのアドレスを指示することができる。8ビットに対応した8237Aも、当然これに対応して一度に16ビットのアドレスを指定できるように作られていた。ところがPCに使われた8088やPC-9801の8086は、20ビットのアドレス指定ができるように機能が拡張されていた。そのため8237Aを使ったのでは、4ビット分の不足ができて、本来なら一度ですむはずの動作を二度に分けて行わざるをえなくなる事態が生じえた。

 割り込みの仕掛けがPCとそっくりそのままとなっている点も気になった。アップルII がすでに、増設ボードを複数差し込んだ場合でも信号が混線しないような構造をあらかじめ用意していたにもかかわらず、PCがこうした備えを欠いてユーザー自身による細かな設定作業を求めた点を、PC-9801は引き継いでいた。RAMのリフレッシュをDMAコントローラに任せてしまっていることも、松本にはPC-9801がPCをそのままなぞったことの〈負の遺産〉としか思えなかった。

 ベーシックを収めたROMを本体の基板上に置かず、増設ボードにして差し込んであった点は、インタープリターの開発が高く張った綱の上を駆け抜けるような厳しいスケジュールで進められたことを物語っていた。PC同様、あらたに専用のASICを起こすことなく既存の部品だけで作られていた点も、PC-9801の急ピッチの開発を物語っているように見えた。

 日本電気の半導体グループは、自分たちの従来の路線を素直に16ビットに延ばしたPC-9801に大きな衝撃を受けていた。渡辺も後藤も、16ビットのパーソナルコンピュータをビジネス機として成功させるとすればこの路線以外はないと考え、情報処理グループとの意見交換に際しては、その主張を繰り返してきた。だが彼らがわずか半年のうちに互換ベーシックとハードウェアを仕上げたことは、渡辺たちにとってまったくの予想外の事態だった。

 一方松本にとっては、少なくともハードウェアに関する限りPC-9801は新しいマシンへの確信を深める材料とはなっても、不安をかき立てる脅威ではありえなかった。

 松本は日本電気版のアルトの子供を、PCを否定しつくす中から育てようと考えていた。GUIを素早く動かそうとすれば、松本はPCの選択を1つ1つ切り捨てて独自の解答を編み出さざるをえなかった。

 PC-9801は松本にとって、すでに決別した過去だった。

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