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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

マイクロソフトの苦闘

富田倫生
2010/7/20

前回「マック、リサ、日本電気版アルトの開発競争」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 パロアルト研究所からマイクロソフトに引き抜かれてマルチプランの開発にあたったチャールズ・シモニーは、ラスベガスで開かれた1982年秋のコムデックスの会場で、ロータスディベロップメントの1-2-3とビジコープのVisiOnに衝撃を受けた。

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 IBM PCの誕生以前、OSの覇者はCP/Mを擁するデジタルリサーチであり、最大のアプリケーションメーカーはビジカルクのビジコープだった。言語を握っていたマイクロソフトは、PCを突破口として16ビットのOSを押さえ、マルチプランでアプリケーションの目玉となった表計算を握ろうとしていた。だがコムデックスに登場したVisiOnは、視覚的な操作環境に向けたMS-DOSの進化の道筋をいち早く固め、高速の表計算ソフト1-2-3は、デビューしたばかりのマルチプランを吹き飛ばしかねないパワーを備えていた。

 初めてアプリケーションの分野に参入するにあたってマイクロソフトは、今後どのアーキテクチャがパーソナルコンピュータの主流となっても開発作業がむだにならないという点を重視して、言語を選んだ。

 マイクロソフトが選択したパスカル-Pは、中間的なコードをはさみ込む特殊な構造を持っていた。そのために、処理速度は多少遅くなったが、いろいろなマシンに比較的簡単にプログラムを移植することができた★。

 ★パスカル-Pで書かれたプログラムは、いったんコンパイラによってPコードに変換される。ただし実際に特定のマシンで走らせる際は、このPコードをインタープリターによってさらに機械語に翻訳して実行する。

 カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で開発されたUCSDパスカルは、Pコードを採用し、代表的なマイクロコンピュータに幅広く対応していた。マイクロソフト自身、IBMから依頼を受けてPC用にパスカルの開発を行うことになっていたが、マルチプランの開発用にはソフテックマイクロシステムズ社から販売されていたこのバージョンが選ばれた。

 マルチプランやのちにマイクロソフトが開発することになる表計算ソフト、エクセルは、Pコードをインタープリターによって実行する構造を持っていた。こうした移植性の高い言語を採用したことで、マイクロソフトは1982年8月のアップルII 版の発売を皮切りに、さまざまなバージョンを短期間に送り出し、10月にはIBM自身からのマルチプランの発売にこぎ着けることができた。

 ミッチー・ケイパーは、IBMがパーソナルコンピュータに乗り出してきた段階で、このマシンに賭けようと腹をくくっていた。

 他のマシンに移植することなど念頭に置かなかったケイパーは、機械語にもっとも近い、それゆえ処理速度は速いけれど移植性には乏しいアセンブラーで1-2-3を書いた。グラフィックスを処理するために、さらには画面への表示をより素早く行うために、1-2-3はMS-DOSをバイパスしてPCのハードウェアに直接指示を出していた。こうした作法でプログラムを書けばMS-DOSが互換性の基盤として機能しなくなることは明らかだったが、ケイパーは最大の市場となると睨んだPCで最強の表計算ソフトを書くことに目標を絞り込んだ。

 もう一方、視覚的な操作環境を実現する基本ソフトの分野でも、マイクロソフトはビジコープに後れをとった。

 ビジコープがコムデックスで発表したVisiOnは、MS-DOSにかさ上げして使うという構成からアルト型の環境を提供するという目的まで、マイクロソフトが開発を目指しているインターフェイスマネージャにそっくりだった。

 しかもVisiOnはすでに、PC上で動いていたのである。

 西がアレンジした日本電気版のアルトの子供に間に合わせるだけでなく、本命であるPCの操作環境の未来を抑えるという譲ることのできない一線を守り抜くために、ゲイツはインターフェイスマネージャの早急な開発を指示した。

 1983年1月に開かれたパーソナルコンピュータ関係の会議で、ゲイツはマイクロソフトがVisiOnに先だってGUIの出荷を開始するだろうとほのめかした。

 だがインターフェイスマネージャの開発チームは、与えられた開発目標とPC上で使うという条件の板挟みとなって苦闘を余儀なくされた。

 当初からGUIを載せることを前提とし、グラフィックスの処理を徹底して高速化するという課題を与えられたとき、松本はPCの選択を1つ1つ否定しながらハードウェアの骨格を組み立てた。一方マイクロソフトの開発チームは、あくまでインターフェイスマネージャの本命のターゲットとなる、PCを前提として作業に取り組まざるをえなかった。

 文字と数値だけならともかく、グラフィックスを扱ううえではきわめて貧弱なハードウェアしか想定できなかったにもかかわらず、インターフェイスマネージャへの要求水準は高かった。

 開発チームはGUIに加えて、複数のアプリケーションを並行して走らせることのできるマルチタスクを実現するよう求められた。さらにインターフェイスマネージャに対応して書かれたアプリケーションだけでなく、MS-DOS用のソフトウェアが実行できるようにすることも目標に組み入れられていた。

 達成すべき課題と頼りうるハードウェア資源が著しくバランスを欠いた中で、マイクロソフトの開発作業は難航を極めた。この年のはじめにはインターフェイスマネージャのプロトタイプが動き出していたが、その動作は耐えがたいほどに遅かった。

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